行僧原の西 朝比奈城東 小泉の宝篋印塔 朝夷さま

先日は調子づいて高校野球の勝ち負けについて記しましたが、昨日の結果はすべて前回とまったく逆。

私が応援などすればロクな事がありません。

静岡県代表の静高も期待に反していいとこなし。

しかしお茶の間でどうこう一喜一憂している者としては気が楽なものです。

 

昨日お会いした野村氏は静高出身で野球部後援会としてあの試合は甲子園のスタンドにいらしたとのこと。大変ですね。想像を超えた疲労度を感じてしまいました。

ついでに京都に立ち寄って円山公園にて花見を楽しんだとの事。

 

それにしても好天つづきで花散らしの風雨がありませんから花もちが良く見頃が持続します。これまで未経験のこと、本当に珍しいです。

そのせいで4月7日の拙寺「春の法要」の日についに雨マークが点灯してしまいました。

また「勝手にしやがれ」と投げやり。

 

さて、朝比奈の河原﨑姓について記しましたが行僧原から小泉という地に降りた辺りに某「河原﨑」家の墓地があります。

改修を重ねているようで一見新しい墓ですが墓誌に記された一番古い方が「元禄四年」とありました。

家紋はやはり澤瀉(おもだか)です。

 

家紋というものは同族であっても変わっていっても不思議の無いものですが河原﨑といえばなぜか澤瀉(おもだか)が圧倒しています。墓石には「宮之谷」とありますが「小泉」同様にこの地のことをそう呼んでいるのだと思いますが・・・。勿論その「宮」とは近くの豊受神社でしょうね。

ただし、「宮ケ谷」という地も「横舟」から一山超えた西側にあります。

 

この河原﨑さんは代々農業を営んでいますが、元はといえば谷向かいの横舟という地から来たのだといいます。

正確な転住時期はわかりませんが先祖伝来の耕作地がこちら側に近かったせいかも知れません。

その移動時に移してきたのが豊受神社といいます。

住処を変える際に神社を建てるなどは余程の財力があったということでしょうね。

④は豊受神社からの画像ですが矢印が「横舟」地区。

この神社の近くに小泉公民館⑤⑥が見えますが墓地はちょうどその裏側になります(場所はこちら)。

 

そのご当家の墓の近くに小さくて簡易な覆堂があって、その中にはこの地域一番といってもいいくらいの美形の宝篋印塔が鎮座しています。

あの石切りさまとは細部を異にしますが、時代的には同じような感じがします。

やはり相輪上部は後補のようですが実はこの墓石の地元の皆さんの愛称は「朝夷さま」(あさひなさま)。

「朝比奈」ではなく「朝夷」、こちらの字を書きます。どうやら元は朝夷で時代を経て朝比奈になったような・・・

 

この辺りの地名は朝比奈(上朝比奈・下朝比奈)で、その地名の発祥を推測できる名ですが、この地より西に1キロ行ったところには曽根氏が入った朝比奈城がありますね。

そちらの城砦の設定次期はといえば16世紀頃と思いますので、あくまでもこの朝比奈という地名はそれ以前からあって、この「朝夷さま」と城との関係はないと考えます。

 

ということで地元の伝承。

この「朝夷さま」とは朝夷三郎の墓というのが通説。

朝夷三郎といえば鎌倉期のスーパー超人ヒーローでした。

和田義盛の三男で「三郎」。名は義秀です。

和田が幕府方に追われた際、阿波に逃れたといいます。あまりの人気振りで各地にその伝承が残っていますがその説を覆して脈々と当地に落ち延びたという伝承が残っているのでした。

まぁ一族離散の中、それぞれの生き残りがその名を継承していったことも考えられます。

 

以前ブログでこの台地の南側「落居と比木」について記しましたがこの比企氏といいこの辺りは鎌倉から落ちた名家が雌伏する地だったのでしょうか。

 

その伝説的超人はあの歌舞伎「曽我対面」でも登場します(小林朝比奈)。ちなみにその妹が「舞鶴」です。

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コメント: 6
  • #1

    くりくり (日曜日, 01 4月 2018 23:11)

    鎌倉時代の街道はどこを通っていたかよくわかりませんが小夜の中山通るよりは、南にまわって、こちらを通った方が山も低いし盗賊も少ないし、いいかもしれませんね。古い地名を探していくのは、すべてがつながっているかはわかりませんが、昔を想像させてくれますね

  • #2

    今井 一光 (日曜日, 01 4月 2018 23:18)

    ありがとうございます。
    小夜の中山の件、東海道の難所ですね。
    その通行難渋を回避するために海岸に近い平地を選択することはあったと思います。
    金に糸目をつけなければ舟の移動なども適宜思考したことでしょう。

  • #3

    河東村出身者 (月曜日, 02 4月 2018 06:42)

    平安時代の資料に朝夷郷が出ているので、朝夷三郎→朝比奈は無理にせよ、逆や同名をきっかけに繋がったことはありうるように思います。

  • #4

    今井一光 (月曜日, 02 4月 2018 08:53)

    平安期に朝夷の記述があったのですね。朝夷三郎は後付けということになりますね。
    漢字書きは「聞き書き当て字」からの枝分かれがありますので私は朝夷→朝比奈のラインを支持します。要は河原崎→川原崎 勝間田→勝俣 勝田・・・です。

  • #5

    野村幸一 (月曜日, 02 4月 2018 18:03)

    最近ふと思ったのですが、五家それぞれに歴史が口伝的に伝わっているとの事ですが共通した部分以外に伝わる話があればもっと掘り下げるキッカケになるやもしれないと。

    史跡調査会の河原崎陸雄さんは五家の河原崎氏とは別の系統なのでしょうか?

  • #6

    今井 一光 (月曜日, 02 4月 2018 21:34)

    ありがとうございます。
    450年も経っているとどちらの家も伝承すら消えてしまっているよう。
    せいぜいこの100年程度の事でしょう。
    いずれもさまも歴史にはそう興味が向かないようであります。
    河原崎さんは別系統となります。