谷森に響く鶯の音 浜岡朝比奈城  大空堀の存在

今川家有力家臣団、朝比奈氏の城、藤枝の朝比奈城とは別です。

こちらは旧浜岡町、現御前崎市の城址です。

相良から浜岡方面に向かうには150号線か、途中須々木から比木方向か、朝比奈というコースの選択となります。

ちなみに古い時代の浜岡の中心地は新野ですので、敢えて記せば塩買坂手前の八幡平の城の南を下る道もその4番目の選択肢になるかと思います。

 

上記比木の落居寄りの台地上の古道が田沼街道の延長とも言われていますので、現在とはまったく違った道が使用されていたことも考えられます。

 

以前、比木の地と三つの城について記しましたが(20140802080308040807)朝比奈城は勿論、朝比奈コース上にあります。朝比奈経由は相良中心部から鬼女や朝比奈原へ上がってからの直線コースで、比木方向とは台地を挟む南北の違い、そして比木と新野の地にに挟まれた場所でもあります。

 

城のあった場所は厳密に記せば下朝比奈と呼ばれます。その比木側の台地上から北側の低地麓側にかけて北向きにあった城ですね(場所はここ)。

今でも麓の人家に声を掛ければ「しろやま」で通じるくらいですが「杉山」とも呼ばれているようです⑥。

しかし、この頃の山道の散策は心が洗われます。新緑の空間に響く鶯や野鳥の声のおかげです。

 

一説に曽根氏の城と言われていますが、そうなると第一次高天神城戦にて城主小笠原与八郎長忠に従がって本丸に入った曽根孫太夫長一を思い浮かばずにはいられません。

高天神崩れの城ということになりましょうか(開城後は家康方 そののち紀州へ)。

 

このマイナーの城はまず、航空写真で空から確認しましょう。

上記最期⑳の画像がそれですが、地図と比較参照ください。

 

⑳を見ての通り現在唯一の登城口とされるA(画像⑦の細い階段 遠景は② ①はこの谷の1カット)が尾根上の構造物を通過して主郭らしき場所へ繋がる道です。上空から見ればザリガニの頭のような部分Aの台地に左右の大きなハサミ状に平地から主郭への侵入経路を防衛するかの如くの張り出した台地が覗えます。

 

AとCは浅い谷を隔てて連結していますがBは根本まで深い谷が喰い込んでいます。

私は、航空画像のAは主郭のあっただろう尾根と推測することに異論はありませんが、平地面に接した西側の守備としてCの尾根も重大な城の縄張りの一部であったと確信しています。

C部分は現在「南公民館 老人いこいの家」と「旧妙音庵薬師堂」③④⑤があり、探索は冬場でしたらその堂の裏からも可能です。

ただし、こじつければ遺構を思わせる場所もありますが途中で引き返すくらい自信は喪失してしまいました。

その堂の向かいにある小段丘には堀切を思わせる遺構が確認できます。

 

勿論正攻法のA段丘⑦から登攀すれば、各所に堀切⑩⑫、土塁⑪、曲輪⑨⑬等の遺構が確認できますが、この尾根を登りきったあと、スンナリ台地上に出て茶畑⑯を目視したあとそのまま元来た道を降りてしまえば「この遺構」を確認することはできません。

 

台地に上って茶畑を突っ切れば、朝比奈と比木の境界線となる台地(原)上を走る道路にあたりますが、この道を左に行くと当山初代と近江から石山本願寺に籠った、河原﨑(川原﨑)一統が定住したの朝比奈の行僧原へ繋がっています。

⑯の鉄塔たちを左手にして100mほど歩けば落石注意の看板と左に下る道がありますのでそれを下ってA方向に戻ります。

ほんのしばらくで小さな祠がありますのでその左側と林道の右下をご覧ください。航空図B 画像⑰⑱⑲の比較的大きな空堀(一部竪堀)を確認することができます。

 

この林道が付けられた際道路部分は壊されてしまっていますが、左右にはその掘削部分がハッキリとわかります。

台地からの攻略への弱点を埋めるため城の北東側に面して深堀を構築したものと考えます。丁度AとBが根本で合わさる箇所で、攻め手としてはまずそこに狙いを定めてくる場所ではあります。