山城の醍醐味満載 新野の八幡平の城   

「新野」のお城を

1 釜原城

2 天ケ谷の城平(高橋城)

3 舟ケ谷城① 

と遊んできましたが、スケール、残存遺構の豊富さで他を抜きんでているこの八幡平の城址をこの辺りの城歩き好きの方々で知らない人はいないかも知れません。

もっとも新野在住の方はともかく池新田や御前崎の地元人に聞いたとしてもおそらく、いつものように「城なんてないよ」と言われるのがオチでしょうが。

 

この城址はハイキングコースとしても比較的整備の手が入っていること、想慈院さんという大きなお寺の駐車場や最近整備されたグラウンドゴルフ場、親水公園(「新野水のめぐみ公園」)に車を置かせてもらえれば特に便利です(場所はここ)。

 

比高も上記三つの城と同様100mもありません。

この地区特有の舌状台地上に構築された城で大きな山を登るという覚悟のようなものは不要で、ハイキング気分。

ただし堀切を降りたり登ったりはありますので、転倒等のリスクはご配慮ください。

気軽に散策、しかしじっくり見ていくには半日以上かかるかも知れませんね。

 

さてこの城の存在に関しては2つの事案についてこれまでの推測の派生に心が動きます。2つの事象は勿論時代が違います。

先日小和田先生のブログで興国寺城についてその遺構がどの時代のものかとは「断定しずらい」ということが記されていましたが(今川、伊勢宗瑞時代、武田時代、徳川時代)、この八幡平城についてはその興国寺城以上にわからない事ばかりで、断定的な事は一切わかりません。

 

興国寺城の場合、城のスケールは八幡平城よりも小さいという感覚ですが要は、そのスペースに各時代の遺物が重なって(改変されて)古いモノが見えてこないのかも知れないということですね。遺跡の上に遺跡ということでしょう。


八幡平城は辺鄙な場所ということで徳川時代はまったく鼻にも掛けてもらえない城になった模様。

よって最終的にこの城の使用者は武田系であったと考えられます。

それ以前は今川系新野であったというのが定説ですね。

スケールとしては台地先端の舟ケ谷城と併せた城塞と考えれば非常に広大です。   

まずはロケーション。

ざっと当時の湖畔に突き出た台地先端bが舟ケ谷城。赤枠全体が+八幡平城と思っていただいてOKかと。

Aが想慈院さんです。

右上Cが現在の新野原の交差点になります。そこから南へ相良方面に向かえば菅山の川田砦

ということで八幡平城の根本を直行する街道が「塩の道」。

Cの相良とは逆方向が塩買坂、正林寺方向になります。

要は武田の元亀二年(1571)の信玄による名刺代わりの高天神城包囲、天正二年(1574)の勝頼による攻城戦の武田方進軍路ということです。

 

さて、上記2つの事案について記しますが、これは私の推論です。

まず1つ目。先だって今川義忠の死について持論を展開しました。塩買坂で討ち取られた今川義忠はいったい何処に向かっていたかを推測すれば私はこの八幡平・舟ケ谷の城へ入る事が目的だったということを考えずにはいられません。

 

塩買坂は駿府方面とは違います。駿府への帰路とは言い難いのです。画像Dが塩買坂、今川義忠死亡の推定地です。

ちなみにそのすぐ西側の交差点が磯部で北に行けば横地城です。

谷を一旦下って八幡平や舟ケ谷に入ってもいいですし、原を迂回して台地の根本から八幡平の城域に入れば、下って上るという陣形の乱れを背後から衝かれる心配も減るでしょう。

何よりも新野氏は今川有力与力。城もさほど遠くないということで、その日今川義忠軍は投宿を考えこの城に向かっている際に横地軍の残党の待ち伏せを受けたということかも知れません。


地の利では横地方が一枚上手、義忠が家臣の新野氏居城に入るということは優に推測でき、塩買坂尾根に先回りして、左右から横矢を入れたことでしょう。

旧塩買坂は馬一頭が通れる程度の幅ですので、敵の大将を狙い撃ちすることは容易だったことでしょう。

 

そして2つ目の推測。

ブログにて、黒沢の映画「影武者」の信玄を現認した本多忠勝との「場面はココかも」ということで「塩買坂」のイメージを記しましたが、それとは別の場所になります。

これが八幡平城だったかも知れないという推測です。

 

当時武田勢は駿府から大井川を渡り、水軍を配備したり相良城等を築くなど東遠州を勢力下に入れて、沿岸をなめつくし、あとは高天神に迫るばかりでした。

武田勢の2度の高天神襲来はともに「塩買坂」の台地上で高天神城にその旗差(兵力)を見せつけたあと、台地から降りて、高天神城へは向かわずに菊川が駿河湾に注ぎこむ手前の「国安」へ一旦下っています。「塩買坂の先端」台地というよりもこの八幡平城と考えた方がより効率的、国安にも近いですね。

 

多少は直線距離で高天神城からは遠くなりますが、台地根本を「塩の道」が通るこの台地付近を大きい意味で「塩買坂」と呼んでいたとしても不思議はありません。

そしてこの八幡平の城付近から高天神城が見渡せるかといえばまったく問題なく見渡すことができます。

以前にも記しましたように、燃料に関して現在の様に多様な原料の選択肢が無い時代、木々はそのオンリー1の時代です。

 

殆どの里山は神社等の境内地を除いて、刈り取られていて、見渡しは申し分なかったと思います。

特に城塞は街道筋に威容を誇るために木々は伐採されて誰もが見上げられるようにあったでしょうから、いわゆるハゲ山で目立ったことでしょう。

 

信玄も勝頼も塩の道から正林寺方向の昔から言われる塩買坂へ向かう道に進まず、現在の新野原交差点から左に軍を進めたのかもしれません。

 

この城のスケールは大きいので私は未だすべてを確認したわけではありませんが、主郭といわれる場所(八幡平)へ直接向かうのがスジでしょうね。


登城しやすいのは前述想慈院さんからですがお寺の墓地から上がるコース(画像②)を辿ると主郭とはズレてしまい往ったり来たりすることになりますので、それより西側にある画像④の「大手登り口」の登攀路を選択します。

ちなみに想慈院さんの墓地は比較的新しいもので、周辺各所より集められたであろう古そうな墓石が並んでいました。


各種遺構がオンパレードしていますのでそれらをチェックしながら登れば簡単に主郭まで。

通行止めのロープがありますがこちらから舟ケ谷城方向へ行くことができます。無整備のため藪状態で終いには道路で分断されてしまいますが・・・。

 

堀切土橋等各所に点在し城好きには申し分ない散策コース。

例によってその感動を画像に納めようとしてもサッパリ判明しませんのでほどほどにしますが、まだまだ紹介しきれない遺構があります。⑬は二重堀切を撮影したつもりです。

 

主郭⑫から台地根本方向に行くと⑯のハイキングコース(地図記入あり)に出る事ができますが、この辺りが城縄張りの東端でしょう。想慈院から登った場合、鬱蒼とした林の中の尾根から出れば⑰の看板のある茶畑に出ますが、曲輪風に造成された茶畑の平坦地を2カ所超えると⑯のハイキングコース入口にでる事ができます。


茶畑周囲の藪の奥にも出曲輪状の遺構が残るという情報もありますのでゆくゆく探索することにします。

新野原の交差点から⑯に向かうには交差点を浜岡方面に行ったらスグにその道と並行する農道が右に出ていますのでその道を行きます。上記の画像が新野原を少し行った場所から見た高天神城方向の図。

 

前述の「新野水のめぐみ公園」は最近では蛍観賞地としてこの辺りでは有名になりつつあります。蛍の生息地は本当は地元では内緒にしようとしますが、それは荒らされたり採取する人が絶えないからです。観賞のみにしましょう。

5月になったら夜間出没するつもりでいます。

セールスポイントは「東西蛍の混在する生息地」といいます。