舟ケ谷城の名称と池新田  地所の堅さは古に聞け

地域に残る古地名はその場所の地形や歴史を知るうえにとても興味深い内容を示唆している場合があることはかねてからブログで記しています。

 

御前崎市新野の、と言っても古い地元の人からすれば新野が「御前崎」といわれてもまったくピンときませんが・・・殆ど小笠のイメージですからね。

その新野の左馬之助のお城と言われる舟ケ谷城の「舟ケ谷」の地名、字面からそのまま「舟の泊まる谷」と解釈するには、現状地形からは殆ど想像がつきませんね。

 

しかしここは古地名を信じましょう。

この舟ケ谷は篠ケ谷と呼ばれるやはり古い地名の一部にある感覚ですが、「篠竹覆う湖畔」がかつてのこの辺りの風景であったといいます。

その湖畔とは舟ケ谷城のある丘陵の南側に広がる湖であり、城を守る天然の堀であったのでした。よってその舟ケ谷の舟とは城の主郭へと繋がる船着き場の「舟」であったわけです。

 

その湖--池(新野池)を決壊させて南部の平地を「新野川」として海岸方に流し新田開発を行ったというのが「新野池新田」→「池新田」です。

ということで、現在市役所のある比較的開発が進んでいる池新田とは地盤脆弱でその名(新田)の通り歴史上新しく人の手で開拓していった場所なのでした。

 

先般規定外の免震ゴムがこの地の消防署に使用されていたということが問題となっていましたが、そもそもあの辺りの地所は浜岡砂丘ともいわれるように古くから砂状であって、地盤の安定はまったく期待できないはずです。

古い時代の「人」の埋め立てた地であって「人」の考えた耐震基準についてその適格性について右往左往しているのを見ていると何とも滑稽ですね。

 

ちなみに私が市の関係者であるならば、消防署という市民サービスの根幹を為すべき施設は、地盤の甘そうな人口密集地へは設置せず多少遠くとも、新野の舟ケ谷城の北側、山の麓あたりに設置するこを推薦したでしょう。

私は今建設が進んでいる場所は震災時真っ先に液状化する場所であると踏んでいます。

まぁお隣さんの市の行政ですからね。ちなみに相良に出来た消防署の場所は大沢地区の丘陵の北で、あの丘は地盤の固いところですね。

 

地盤の固さを知るには・・・掘って確かめるほかはありませんね。

そんなことをやっていられませんので、古(いにしえ)に聞くワケ

です。それが古い「墓」なのです。

砂状の崖に横穴墳を掘る事ができるでしょうか?

湿地帯に墓を建てられるでしょうか?

No!ですね。

要は古い墓が残る場所は地盤が悪くないということなのです。

これまで長い間「墓が残っている」ということ自体がその点「いわずもがな」でもあります。

 

さて、新野でも特に地盤が固いと言われる、舟ケ谷城の山腹南側には複数の横穴古墳があります。調査済みもあれば茶畑開削によって壊されたもの、舟ケ谷城造作の際に消失したと思われるもの、そして、横穴の上部が陥没して内部が顕わになっているものなどです。

この辺りの発掘調査についての詳細は不明ですが、御前崎の教育委員会には文化財を市内外に公開するという方向にはありませんので内容物に関してはどちらかの倉庫の中に詰まっているのでしょう。原発で入ったカネを道路工事に振り分けるのには一所懸命ですがね。

 

①は尾根南下の「殿平」と呼ばれる場所。「殿ノ平横穴群」という古墳密集地があります。内部は平たい敷石が並んでいました。河原の敷石ですので、どこからか持ち込んだものでしょうが、城の防衛用の投石用として墓から掻きだしたというフシがあります。張り出した曲輪と尾根上の施設?とを結ぶ通路(武者走り)にバラバラとそれらの石が散見できます。

 

④は天井が陥没したのか口が開いている横穴墳墓。

⑤南側崖部、発掘調査済みでしょうか。

地図★印「南 殿(とんのや)」から見た南方向。

この平坦な地が大きな池だったといいます。

⑥は前方後円墳の上に建つ幡室神社の森。浮島だったのでしょうか、それを渡す橋が⑦「矢掛橋」(黄色★)。

城を囲む要衝の雰囲気が出ている名です。上記神社のある浮島と陸地の間を通過する敵方の舟に矢を射かけるという状況が想像できます。

⑧が橋から見た舟ケ谷城、右方向が八幡平城。