義忠が討たれた塩買坂・・駿河帰還中ではない   

今川義忠があの塩買坂で討取られたという歴史は今のところは動かないでしょう。

彼の子の今川氏親が建てた現正林寺さんと義忠の墓も何度かブログにて記しました。そちらからの夕陽も・・・私の好きな場所ですし。

 

ちなみにこのお寺は新野の二つのお城、釡原と天ケ谷城平(高橋の城)で記した、現公道の「高橋」や「磯辺」の交差点の延長上にあります。いわゆる大きい意味の「塩買坂」ですね。

現在の塩買坂付近の道路は最近作られたものだということも既報の通り。細い農道に上る道が古道塩買坂です。

また、この寺の現住所地は「菊川市高橋」であり名称は「磯部山 正林寺」ですね(場所の復習)。

 

ざっくりと推測を。

天ケ谷城で塩買坂で亡くなった亡夫の菩提を弔うために尼となって寺を建てたという話を紹介しました。

武士の妻が夫の亡き後、仏道に入るというのは武家の女のならいであり、資材を投じて一宇を建立するなどという話はよく聞く話。

 

今川義忠家臣、と言いますが令外官、近衛府の四等官~長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)~の「判官(じょう)」の右近将監(うこんのしょうげん 従六位上)、~五位で右近大夫(うこんたいふ)~という人がその尼となった人の夫であると。

 

それが応仁・文明の騒乱で東幕府側についた義忠の配下として任じられた官職名なのか、ありがちな官職名風内輪の通称なのかそれはわかりません。

氏は勿論「高橋」なのでしょう。天ケ谷は高橋の城ですからね。

 

そこで新野氏・高橋氏について見てみると、相良氏・横地氏・勝間田氏と同族であることが推測できます(鎌倉以降より東遠江は相良氏流横地氏派生の各家が領しました)。

 

相良荘司藤原維頼(光頼)は遠江国府のあった見付にあって前九年役で東征途中の八幡太郎義家をもてなします。その際に維頼の娘と義家の間に男子が出来てそれが横地太郎家永で横地家始祖。家永の長子頼長が横地本家、次子、次郎が勝間田に移って勝間田家の祖となります。


源家の血を継ぎますが、庶子であるため、母方の流れ、「藤原南家流」が通称となります。それでも藤原不比等の長男、藤原武智麻呂流(相良氏は工藤周頼―かねより―始祖)。

 

以上の如く、藤原南家+源家棟梁の血筋に異論を唱える者は見当たらず、相良・横地の庶子分立として今川家の守護台頭と室町応仁期あたりまで縁戚家同士、分家筋のお隣さんとして東遠江は安定期にあったのでした。

 

通説「横地・勝間田両家を滅亡させたあとに塩買坂で討死した今川義忠」の跡目争いについてはこれも何度か記していますが、小和田哲男先生の新書、「戦国静岡の 城と武将と合戦と」(2015.2/25 静岡新聞社 )に、「今川記」四を記した箇所があります。

今川一門を羅列する部分ですが「瀬名・関口・新野・入野・なこや・・・三浦・両朝比奈・庵原・由比」とあって何と三番目。有力家臣団であったことが推察されます。それに対して高橋氏の名は出て来ません。

おそらく新野・高橋は同族ながらも新野氏に組み込まれていたか、縁戚関係をより強く結んで特に新野と同一に見られていたかと思われます。

 

参考までに新野家の通称官位は左馬之助。

四等官では馬寮の次官(すけ)。相当官位は正六位下です。

官位としては馬寮は武家の憧れの職であると聞きますので高橋氏の「右近将監」よりは単純に見て上位かと。

 

いずれにせよ塩買坂に居た理由は新野の城(八幡平・舟ケ谷)を出陣のベース(陣城)としてその城からの出入りのためであったことが考えられます。

それが退路であって高橋の城でなかったのは、理由があったのでしょう。

たとえば横地・勝間田の軍兵が転回していた等ですね。

大元、同族でお隣さんが反目するのも世の習い、そもそも京の都で始まった乱戦も要は各家何かしら同族同士の内紛、利害から始まったものでしたから。

 

『横地「残党」が一矢を報いた塩買坂』というのが通説ですが、先の小和田先生の書物に新説が記されていました。

概略書き記すと、「今川義忠の侵攻について、従来は応仁・文明の乱にて東軍の旗下に居た義忠が西軍守護領国の遠江への進出と考えられていたが、東幕府は同旗下、東軍の斯波義良を支持し、横地・勝間田に交戦させていた」ということが明らかになっているとのこと。

 

東幕府の二枚舌的なところはさておいて結果的に戦勝者は今川であり、歴史を改ざんした可能性も出てきたことを示唆しています。

「残党による不慮の死」ではなくて、塩買坂から横地城という広範囲の戦場の中、両軍が真っ向勝負して結果討死したことも十分に考えられるようです。負けた筈の敵の残党による「汚い不意打ちによる不慮の死」の方を強調したのでしょうか。

 

そうなると幾度かあった戦闘の出陣時の戦闘なのかあるいは通説通り退路であったのかもわからなくなりますね。

本来の横地・勝間田の主力は横地では無く見付にあって本戦場はそちらでしたから新野の城は絶好の陣城だったでしょう。

ただし横地城を陥落させたタイミングはわかりません。

 

現在の磯部交差点から塩買坂トンネルを潜って新野方面に向かう道路は近年に造られたもので当時はあのような道はありません。この道は新野の平地に下りる寸前に舟ケ谷城を分断していて、他のお茶畑の開墾もありますが、おそらくこの道路工事によっても、大きく城址の痕跡を失う要因になったでしょう。

 

①は新野方面から塩買坂トンネル。抜ければ磯部交差点。

右折すると②図。青い矢印の農道が古塩買坂。左へ行けば正林寺さんへ。その道を行き正林寺さんには行かずに丘を登り切ったT字路手前右側の祠が義忠五輪塔です。 

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コメント: 5
  • #1

    河東村出身者 (水曜日, 23 11月 2016 06:39)

    小学生のころ正林寺に行った際に、塩買坂の七本槍 の話があり、(1)撤退戦で(2)今川方だったと記憶しています(全然あてになりませんが)。 敗戦して逃げたところを追いつかれたが、逆に追手を打ち取った、ぐらいが真相かもしれません。

    私の車で行った写真しかとってないのがいけないのですが、古道は昼なお暗い細い道ですよね。集団を迎え撃つには絶好の場所だったはずです。

  • #2

    河東村出身者 (水曜日, 23 11月 2016 06:42)

    打ち間違いです(ついでに補足)
    >私の車で行った写真
    →私もblogに写真を載せていますが、車で行った写真で 明るく広そうな写真

  • #3

    今井一光 (水曜日, 23 11月 2016 22:19)

    ありがとうございます。
    貴ブログを拝見させていただいています。
    その「七本槍」については推測するに後世囃されたものの流れのように感じます。
    塩買坂の件の詳細は不詳の中、個々の登場人物の名前は史料的に残っていないというのが
    本当の所ではないでしょうか。
    また現場は藪を開墾した茶畑の農道という感じで、当時は御指摘の通り鬱蒼とした藪の中、馬が一頭通過できるくらいの幅員しか無かったでしょう。
    下から上がってくる一団を上から待ち伏せて狙い撃つには最適でしょうね。

  • #4

    河東村出身者 (木曜日, 24 11月 2016 07:58)

    七本槍の表現は確かにそうですね。みんな軍記物が大好きですから。(私も含めて)

    正林寺の檀家は、横地・勝間田への親近感は全くないので今川方だと思った可能性もありそうです。

    また、横地からここまでは複数のルートがあるのに対し、ここから新野・相良へは馬で遺体を運べる道がここしかない、という仮説も思いついたのでゆっくり考えてみます。

  • #5

    今井一光 (木曜日, 24 11月 2016 08:17)

    ありがとうございます。
    「親近感」についてはおそらく滅亡後500年という時間の経過と
    勝者側の歴史の歪曲と抹消があるのではないでしょうか。

    また亡骸を戦地より搬出する事に関しては当時はあまりこだわることはなかったと考えますが・・・