本多忠勝の信玄現物確認は塩買坂

「塩買坂」と言えば今川義忠が戦勝凱旋の帰路に横地城残党の待ち伏せにあって不運にも絶命した場所です。

文明八年(1476)のこと。

 

遺された子の龍王丸の叔父という立場から今川をバックに前面に出て頭角を現し、伊勢宗瑞(盛時)=北条早雲、小田原北条五代発祥のキーポイントとなる場所です。

 日本史上ターニングポイントとなった「その人の死」というものがたくさん出てきますがこの塩買坂の出来事も十分に隠れた歴史の面白さがあります。

あの時、義忠が討取られずに無事駿府に戻っていたら小田原北条の繁栄は無かったでしょう。伊勢宗瑞がたまたま駿府にあったとしてもただの今川家客人であり政策的発言権はほとんどゼロですから。

 

 さて、塩買坂はかねて記していますように

元亀二年(1571)に信玄が小山砦と相良城を築いて遠州一の堅牢な城、高天神城を2万5000といわれる兵力で包囲した時も(この時は小競り合い程度で攻城戦はありませんでした)天正二年の勝頼の本気攻めで落城した時も(第一次高天神城の戦い)甲州勢はこの塩買坂経由で侵攻しこの台地上に陣を張っています。

 

ところが義忠が馬上で射殺された辺りの、台地上の烽火台があったあたりだろうと推測した茶畑周辺の西側の木々を全て切り払ったとしても高天神方面を見下ろすことはできませんでした(場所はこの辺り)。

 

 信玄や勝頼の陣を張った「塩買坂」は私が義忠が落命した場所と勝手に推測した坂上からは(今は殆ど農道)西です。丘を一気に下ったあと磯部交差点方向へ向かいます。

この交差点、南北に交差するのが御前崎―菊川を繋ぐ道で、塩買坂のある台地は一旦ここで切れています。

その南北に走る道は台地を分かつ切り通しの如くになっています。

 

西進する軍は目前の獅子ケ鼻(第2次の武田方高天神攻めの際に家康が整備した城ですが1次の際も菊川渡河に睨みを効かせていた陣場はあったはずです)目前の菊川の渡河を避けて国安方面に一旦南下するというのが二回の武田方進軍の方法でした。

大将(信玄・勝頼)はこの丘の上にて陣を敷いて2~3に分かれた軍列を見送ってまずは指揮をとったのだと思います。

 

 私が想う「高天神の見える塩買坂」は微妙に「塩買坂」という「塩の道」からは離れますが正林寺の義忠の墓の背後に走る尾根伝いの農道を西へ行った場所にあります。

菊川の造った扇状地を一目に見通せる場所であり少々微妙ですが高天神が確認できる位置になります。

 

 磯部の切り通しに掛かる橋を渡ってさらに西へ行き、平行して走る磯部から西に向かう下の道との間にある龍泉寺の上方にある茶畑の位置がこの台地の西端で、この茶畑の小さなスペース、東側には古来より古墳があったそうです。

 

農家の方の談ですが小さな山を壊して開墾していたら古墳であることが判明したそうです(県主導で一応調査が行われたとのことで、副葬品は未確認ですが菊川市の管理でしょう)。

 私はそこにあった「小さな山」こそが高天神城をうかがう陣であったと半ば確信しています。古墳の上に陣を敷くことはどちらでも見られます。

 

勝頼はとりあえずこちらに布陣し、状況を見つつ国安から中村、毛森に出て高天神とは目と鼻の先にある惣勢山に砦を作らせて布陣したのでしょう。

 

さて、名目上信玄が25000の兵力をもってして攻略できなかったといわれる元亀二年の侵攻は信玄の熟慮の結果でしょうね。「無理攻めはせずいづれの機会をうかがう」という戦略的意図があったと思われます。

 

 余談ですが信玄は城攻めには運気を見たといいますね。

雄壮知略の将の慎重さを垣間見る思いです。

それは「運気の書」という彼オリジナルの携帯用の書です。

それには多様な城の形状が記してあり運気の良し悪しについて補足してありました。

そのたくさんの形状と相手の城の雰囲気との合致点を併せ見て、どのような城攻めが適しているか判断したというものです。

きっと高天神には信玄にとって「悪気」が漂っていたのかも知れませんね。

 

 天正元年に信玄が亡くなったことは映画「影武者」の通り極秘扱いで伏せられたことでしょう。

信玄の亡くなった翌年ですから箝口令が敷かれたらまず判らないところです。

 長篠の戦いが天正三年で、その大敗により武田家は坂を転げ落ちるが如く滅亡への道を辿るのですが、天正二年の高天神城攻城戦の勝利が勝頼を「やればできるのだ」と高慢となっていよいよ増長して次の長篠で大敗したというのが通説ですね。

信玄が出来なかったことをやり遂げたという大いなる錯覚に陥ったのです。

 

 当時、やはり映画と同様、「信玄の死」については半信半疑だったことは必定でしょう。

当然の如く隠そうとする武田側は「影武者」を用意してここ高天神にも出陣させていたのかも知れません。

 

要は徳川勢の躊躇、織田勢後詰の遅延、高天神籠城組の離反開城はすべて「信玄の影」があってのものだったとも考えられます。

「強い自分」「強い国」というものが錯覚であることが判ったのは既に屋台骨が崩れた後だったのでしょう。

 

 映画「影武者」で印象的な1シーンがありました。

やはり本当に信玄が出陣しているか半信半疑の徳川方無鉄砲の将、本多忠勝が信玄の陣場に駆け上がります。

影武者信玄は軍配を持ったまま床机に座って微動だにしません。「山の如く不動」の信玄の姿を確認するや忠勝は「これまで」といって後続を制し、退却していきました。

 

うろ憶えですが、その時の陣中大慌ての中、台地を駆け上がる一団を物見が認識する際、「旗差は何か」―「丸に本の字 本多平八郎」という台詞もリアルで少しばかり「クロサワの台本!」と、嬉しかった思い出があります。

その平八郎が小姓を連れて信玄の姿を確認した場所がこの塩買坂の西の端であったと思えばまた尚楽しい景色となります。

 

 画像は台地西端より望む菊川扇状地。アップ図赤印が獅子ケ鼻の雄雌の城址。その背後星印が高天神城。見にくくて申し訳ありません。背後の山と重なってしまいます。

当時は木々は伐採されて白く浮き出た山には旗差がなびいていたことでしょう。

最後が「運気の書」の一部。