朝比奈原(行僧原先)の宝篋印塔 「石切りさま」

それにしても酷い天気になったものです。

すっかり温かくなったものだと先週ハイビスカスの数鉢を外に出したばかり。

まぁ「箱根降雪28㎝」の映像を見て目を丸くしましたがさすがにそれまでは当地は無茶なことになっていません。

 

朝7時過ぎに電話があり、それが「今日はどうしましょ・・・」でした。

昨日は法事とその後の地代の墓地への納骨が予定としてありました。地代の墓地は丘のトップでまさに吹きっさらし、傘などは効きませんし何より寒いですからね。

私が「お任せします」と返せば「では順延 !」と即決されていました。

 

さて今井権七以来、同行した五家のうち一家の河原﨑家であっても当流真宗の教えから離れた家もあり、すべてが御門徒というワケではありませんが朝比奈原の御当家の墓地は戦後あの地に集められていることは昨日記しました。

やはり元は結構に散在していたようです。

それら旧墓地といえば大抵が舌状台地の縁でかつては土葬です。しかし土地がいくつあっても足りませんし土葬はいかにも効率が悪い墓地形態です。

また、比較的住宅地からは墓域は離しますので参拝もラクではないですからね。

 

そして現在の集合墓は立派な墓石を調達していますが以前は河原に転がっているような自然石をもって墓標としていた時代でした。この納骨室を構えた最近の墓石塔はまずは100年以上の維持は固いところですのでそういう意味からすればいかにも効率的です。

参拝も各家から近くて気軽ですからね。

 

私は経験がありませんが土葬墓の墓域に足を踏み入れると朽ちた棺桶を踏み抜いて危険だといいますし・・・。

ただしそれを想像するに怪我を負うこともさることながら申し訳ないやらそのままにして帰っていいやら・・・非常に複雑な気持ちになりますからね。

 

その朝比奈原の旧墓地の方、現在は森の中ながら整地されている墓地で数基の墓のみしかありませんが、こちらも以前は土葬だったとのこと。

その小さな墓域の片隅に「かなり古そう」を思わせる宝篋印塔が一基立っています。その名を地元では古くから「石切りさま」と呼んでいるよう。

何故にその名かと思うのは当然ながらそれを知っている方は居ず。詳細はまったく不明。

 

ただしこの石塔は美術的価値は高いものがあります。

大きさ的には小振りで、トップに何となく体裁をととのえるために置かれたような宝珠の件(相輪の代用 後補)は無視して、笠の隅飾りの立具合といい南北朝~鎌倉まで遡りそうな風が漂います。

基礎4面に開蓮花文様、笠上段5段、下が2段ですが、塔身の上部に2段が設けられて笠下と接合されています。

 

この地区の古い時代にやってきた鎌倉御家人の名が思い浮かびますが・・・。この石塔の持ち主は普通のレベルの人物ではありませんね。前述したように河原に転がる自然石が墓標の第一にされた時代ですから。

 

軽自動車でも行きづらい場所(こちら)です。

地図上の□印は鉄塔ですが(□から出ている線は電線の方向)行僧原の交差点からの道から見て右側のそれが目印です。

右に折れる農道を行って200mくらい。最後から2枚の画像がポイントです。

ここを右に上がりますが軽自動車でも転回に難渋します。