近江出自相良野村ほか諸氏  読物「浅井三代記」

「北対南の同族紛争」というと・・・。

お隣の国の民族紛争をまずは思いますがこちらは日本の歴史。

近江「江北と江南」と記せばわかりやすいですね。

 

室町期に入って近江は北近江(江北)を佐々木源氏庶流の京極氏、南近江(江南)を佐々木源氏嫡流の六角氏が分かれて治めたことによって特にそのような線引きが生まれ当初は大体の国境を愛知川にしていました。地図はこちらも

それぞれの祖は同じ、「佐々木」です。佐々木信綱という人の4人の男子のうち三男の泰綱が宗家で江南と京都六角の屋敷を与えられて「六角佐々木」本家の継承。

四男の氏信が京都の京極高辻の館と近江伊香、浅井、坂田、高島、犬上、愛智の六郡を継承して京極佐々木がはじまります。

紛らわしいので佐々木が取れて六角と京極です。

 

足利尊氏を引き立てた佐々木佐渡判官入道道誉、「婆沙羅大名」の称号でお馴染みのあの人は京極道誉(京極高氏)とも。

当初は近江はじめ全6か国の守護と室町幕府初期執政に関わった人です。

 

ところがその両家は戦国期に入ると力関係の均衡が崩れて、江南の六角が愛知川を渡河して江北に浸潤し始めます。

このあたりの状況から標記「浅井三代記」に描かれる、江州の長きにわたる騒乱が始まります。

その「浅井三代記」なる書物は「語り」であって、創作の部類ということで歴史的評価は低いものがありますが、当時の読み物としてはなかなか面白いです。

 

その名の通り小谷城を本拠として江北を支配するに至った「浅井三代」浅井亮政・久政・長政の興亡記で戦国期の興味の方向性としても悪くないですね。

 

無茶苦茶に歴史を捻じ曲げているワケでもなさそうですし、話半分としてもその流れは伝わってきます。

特に興味深い点は戦闘参加の顔ぶれを羅列するところで、ご先祖様を推測するに結構ワクワク感があります。

その名の通り京都に近い「近江」の地には今の日本の苗字の発祥とおもわせるものが溢れています。確実に「佐々木」はこの近江だと言われています(佐々木神社)。

 

近江在住の郷氏、国衆の名がちらほらと記されていますからね。この「浅井三代記」の冒頭部分に江北の国衆から土豪あるいは侍大将クラスの名士の名がさらっと記されている部分がありましたので隆慶一郎氏のテキストをコピペしました。

折角のお話しですので羅列個所でなく少々まとめて記させていただきました。

 

その冒頭「鎌倉源氏の御代より三十六人の国衆、八十二人の郷侍と申て御座候」とありますがまるで近江の戦国期は「遠州忩劇」の「遠江三十六人衆」と同じような状態を推察できる件、思わず引き込まれます。

たとえば「三好三人衆」とか「〇〇七本槍」というレベルならばまだしも三十六人の国衆+82は夥しい群雄割拠度を思わせます。

 

お話しは当時の江北は衰退気味、江南の六角に圧倒されて領地は切取られているところから。

伊香郡・浅井郡・坂田郡の三郡(概略、長浜市・米原市・彦根市鳥居本地区)となったあたりからです。

 

三郡のうち坂田郡にはやはり鎌倉御家人のうち名門中の名門、梶原氏の系統と言われる(ただし分流多く確定せず)「上坂」を名乗る家がありました。坂田郡の「上」に定住したことから当初は「上坂田」でどこかでその「田」を抜いて名のったのでしょう。

三文字から一つ取り去って二文字にする作業としては私は表記の「野村」を思います。

野村出自の推測は私ども「今井」と同様に近江と伝わっていて、石山本願寺から紀伊に転戦して「本能寺」を機に遠州相良に定住した五家のうち、昨日記しました相良湊橋を地盤として廻船業を営んで最も繁栄した家です。

その「野村」の姓は「野の村」からの発祥と推測します。早くから「野村」になっていますが、浅井郡野村庄ももとは「それかな?」程度の推測ですが単純に姉川の開けた「野(原)の村」からの変遷を考えます。どこかの市議会議員でお辞めになった「野々村」がありましたがそれです。

きっと「野村」はその間の口語でも書いても面倒くさそうな「々」を取ったのかも知れません。

 

その上坂が「上坂治部大輔泰貞」で江北京極配下の有力者として頭角を現し、江南六角に切り散られた佐和山等を他の国衆たちと奪回に立ち向かうところからのストーリーです。

 

その大義の中で主たる衰微の京極家、上坂に対して今井、浅井らの国衆の台頭が「下剋上」に拍車をかけ、ついには戦国大名浅井三代が成立することになります。

 

さて、「浅井三代記」、当初上坂に従った武将たちの名を見ると、

浅井新次郎、同新三郎亮政に並んで布施次郎左衛門尉、今井肥前守、山崎源八郎、そして野村伯耆守、同肥後守と登場してきます。

布施・山崎・野村姓は相良の近江出自と伝わる「古い家」の姓でもありました。

 

ただしこれら姓はこの江北に限らず江南にも多く見られる姓であってそちらにこだわることはできません。

主たる領主佐々木氏の家が大きく分かれていったのと同様に、各国衆、郷氏土豪地侍の家も細かく分かれて、同族であってもその時々の利害と主従関係を変えて別れ別れになり、分散して立ち回っていったのが戦国時代です。

布施氏などは以前記した(観音寺城布施淡路丸)ように六角系に顔を出しますし、六角から浅井長政に通じたり、近江が織田勢に制圧されたのちは信長に従った布施公雄がいます(ちなみに京極系今井はこちら)。

譬え敵味方となったとしても分散すれば「家」は何かしら残りますのでそれも一つの選択肢となりました。

この三代記にも顔を出す熊谷直貞も関東御家人の熊谷と同族というか本家筋。駿州でいえば藤枝の蓮生寺の熊谷氏がありますね。

 

氏姓が同じと言ってもそれは想像するに十分な楽しみにはなりますが、残念ながら確定的要因にはなりません。

何せ点と点が結びつけることができない歯がゆさがあります。

インチキ家系図屋ではありませんので断定することはできませんので。

 

画像は長浜(今濱)の徳勝寺の浅井三代の墓(場所はここ)。

長浜の駅近で高層マンションのバックが墓地らしくないですね。掲示板の通り元あった場所は上山田村といいます。脱線しますが前述の「1つ省略」の姓を思えば「上山」「上田」「山田」でしょう。

 

その後浅井亮政が小谷に移して浅井家菩提寺としたとのこと。寺の名の徳勝寺は亮政の「徳勝寺殿前備州太守救外宗護大居士」から。

宝篋印塔が三つ並んで壮観さを醸し出していて、それがあの浅井三代ともなれば墓好きにはたまらないものがあります。特に紹介の掲示板も無い墓域の脇にある三つの小型の宝塔たちもその雰囲気を演出しています。①浅井長政 ②亮政 ③久政の順序です。

 

 

永正七年六月十一日の事なるに、上坂治部大輔泰貞、佐和山表へ進発すべしとて、十一日の暮子の上刻に上坂の城を立、今濱村(秀吉以前の長浜)に諸卒をしばらく待合せける。

 

したがふ人々には

磯野伊予守員吉、同右衛門大夫員詮、子息源三郎為員、西野丹波守家澄、同予八郎、大野木土佐守、三田村左衛門大夫、安養寺河内守勝光、浅見対馬守俊孝、浅井新次郎、同新三郎亮政、三男新助政信、渡辺監物、八木予藤次、井の口宮内少輔、後藤弾正忠、筧助右衛門尉、中山五郎左衛門尉、赤尾予四郎、東野左馬助、野村伯耆守、同肥後守、口分田彦七郎、布施次郎左衛門尉、中山五郎左衛門尉、千田伯耆守、横山掃部頭家盛、加納弥八郎、伊吹内匠、住居平八郎、今井肥前守、新庄駿河守、富田新七、香鳥庄助、大宇右近大夫、高野瀬修理亮、山崎源八郎、黒田甚四郎、堀能登守、小室隼人助、

 

此等を宗徒の大将として段々に馳集め、都合其勢四千余騎雑兵二萬余濱道へおしければ、今濱(長浜)より磯山迄三里が間は、人馬打続きて駒のひづめもなかりけり。かくて先勢磯山に着しかば、鳥井本口へ右の相図のごとく時をあぐべしと申つかはされければ、三所の付城の者ども心得たりとて、夜もよう/\に明方の事なるに、鳥井本山の城に閧をあぐれば、残る二所の城よりも同じく閧をぞあげにける。もとよりたくみし事なれば、郷人多く馳集りをの/\時をつくる。佐和山の城には是を聞ずば、敵よするは支度せよ者どもとて、上を下へとかへしけり。

 

中にも小河、目賀多は物なれたる老武者なれば、いまだ夜はあけざるぞ。卒爾に切て出な兵共とて、四方をかけ廻り、持口をさだめける。目賀多は切通へ出、敵の様子を可レ見計とて出けるが、小河は城に残り、高宮と久徳は追手をかためてゐたりけり。目賀多ばかり切通道迄出、敵の様子を見るに、寅の刻ばかりの事なれば、空暗くして敵の色めも見えざりけり。

 

斯て三ヶ所の付城より一千七百騎にて討て出、切通道へはせむかひ、矢尻をそろへて射たりけり。目賀多も射手をそろへて防ぎ、矢をこそ射させけれ。かゝりける所へ泰貞味方の閧のこゑを聞とひとしく、松原村へをしよせて閧を童(元字は口篇)とぞあげにける。折しも城中無勢にて以の外騒動して弓取者は矢をわすれ、甲を着てよろひを着す。城中しばらくしづまらねば、敵を可レ防様もなし。されども平井、奈良崎は切て出、命ををしまず戦へど、味方多勢にて一千騎の兵を味方四千にてもみにもふで責けれな。平井、奈良崎かなはじとや思ひけん。南方あけをけば、佐和山へかけ入、一手に成て可レ防とて、寄手は西南をあけ東北より大軍にて入かへ/\せめたりけり。此西と申すは湖水なり。南をあけおく事は、諸卒を落し心安く攻取べきとのはかりごとゝぞ聞えける。かくて南向に敗北す。

 

磯野員吉、阿閉貞義、西野家澄、熊谷直光、同信直 五人の者どもは佐和山見次勢の役人にて平田山へ取登り備を立る筈成けるが、松原の様子暫見届とをもへば、佐和山と松原の間に西向に備を立、味方の軍を見居たるに、平井、奈良崎落ると見て、横槍に突かゝれば佐和山へ取入事なら、さればふみ留り戦ふたり。味方大軍にて三方よりつゝまんとせしを見て、蜘の子をちらすごとくにちり/\〃に敗北す。味方にぐる敵に目をかけず、其まゝ其を引取佐和山へ押よする城中の者ども、此中数度の戦にも搦手こそ大事と固めつれ。追手の敵は思ひよらざる事なればとや、せん角やあらんとしばしは評議きはまらず。

 

やゝあつて孫七郎、高宮三河守に向ひて申けるは、目賀多伊豆守は切取口を防ぎ給へば、からめては心やすし。追手は我々三人して可レ防随分敵をさゝへ可レ申。其中に後巻あるべし。其期まで防ぎ給へと申ければ、高宮も久徳も相心得たりとて、追手より三百五十騎にて切て出、矢軍少々して泰貞が備を目懸切て入かと見えしが、兼て約諾の事なれば、降人と成寄手の勢と一つになる。泰貞両人に対面して数年、京極の舘へ御心付の段不レ浅、神妙に被レ存候。

 

今度の忠義の段、弥以念比に可申上候条、御忠節頼入と申悦事かぎりなし。かくて降人の者ども案内として尾末山へ人数をあげ、もみにもふて責たりければ、城中こらへかねたるけしきなり。切通口へは三所の付城の者ども追手の軍、利を得ると聞、真黒になり千七百騎と戦しが、目賀多爰を詮途と防たり。今村掃部頭、小蘆宮内大輔、安養寺河内守など立かはり入かはり揉にもふて責れば、目賀多も過半人数をうたせ、其上跡よりつゞく勢はなし、城中へ引にけり。それより追手からめて四方七重八重に取囲喚叫て責めれば、城中防かねて見えにける。

 

かゝりける所に尾末山の責手にむかひし堀能登守は、敵嶮岨をたのみにて防ぐ兵もあらざれば、塀逆茂木ともいはずのりこえ/\責入は、目賀多、小河、追手まで二三度切て出、はしたなき働し、つめの城へかけ込けり。

 

泰貞心に何とか思ひけん城中へ使を立申けるは、城さへ無2相違1、渡されなば命の義は違背有まじきと申つかはしければ、両人の者ども相談して城を敵方へ渡し、命ばかりを助かる事侍の本意にあらざれども、重て本望とげんとて異儀なく城を相渡し、中道より観音城へ落行ば、泰貞は今日数刻も経ざるに、松原佐和山両城を攻取悦び給ふ事かぎりなし。

 

斯て観音城定頼卿は佐和山表へ敵働出たる旨、松原城代の者方より注進あれば、定頼、館に折ふし、旗頭ども休息してをのれ/\が在所へ引籠り候て、わづか馬上千五百にてもみにもふて打立給ふ。江南諸士此由聞付てをひ/\にかけつくれば救常寺にて其勢三千余騎に成にけり。平田山の者どもは不勢にて、大敵の押なれば一術せんとて磯野三百にて一番備を立る。二番阿閉二百にて備へたり。三番西野二百騎にて備を立る。両熊谷は百五十づゝ両脇村中に引かくす。

 

然る所に定頼卿の前手、進藤山城守一千騎にて磯野が陣へ押よする。源三郎為員、例のつよ弓にて射手二十人すぐりて、左右にをき、さしつめ引つめ、矢種をおしまず射たりければ、進藤が先勢すゝみかねて見えにける。吉田安芸守是を見て、進藤殿磯野が手に我等を仰付られよとて、我弟子の究竟の射手三十人すぐつて、弓手馬手に並べ置、四人張にて十三束をさしつめひきつめ互にさん/\〃に射たりしが、磯野勢、此矢前に立かねて半町ばかりも引にけり。

 

此吉田と申は江南にてつよ弓を引、代々弓の上手なり。今にいたる迄、雪賀むらをなほしたる弓、皆人是を賞翫せしは、此吉田が末の事なり。かゝりける所に進藤は是にきほひつゝ敵小勢成ぞ、討取れ人々とて、きほひ懸つて押よする。磯野、進藤もみ合火花をちらしてたゝかふたり。後藤、伊庭喚叫て突かゝれば、阿閉見て横鑓に寄手の方へ突かゝる。今西、熊谷両人爰にありとて、両脇より兵三百騎、面もふらず切て出れば、敵などかは、たまるべき足をみだしてさばきける。

 

磯野、西野、阿閉三人の者共打死爰なるぞ、味方の者共よとて、一足も引ず切てかゝれば、佐々木勢大に崩れて、旗本迄さばきけり。味方の者共は勝に乗て不覚すなとて、二町ばかり追捨て平田山迄引にけり。かくて佐和山の城程なくせめとれば、平田表へ江北勢我も/\と馳あつまる。又江南勢も聞がけにはせあつまり、敵味方乱合火花を散したゝかへば、しばし勝負はなかりけり。

 

鳥井本表の兵ども切通の上に人数を休め、半時ばかりも居たりしが、大将平田へ打向ひ給ふと見て、人数を佐渡根山へおし出、平田表を見れば敵味方黒煙をたて、相たゝかへばこらへがたくや思ひけん。平田山の南の方へをしまわす。佐々木是を見てうら崩して敗北す。泰貞旗本を崩し、高名せよや兵どもよとて、一文字にかけやぶり、かけとほれば佐々木勢我さきにと敗北す。泰貞勝に乗二町ばかり追かけたり。

 

かゝりし所に永原新左衛門尉は薮の一村あるかた陰に人数をかくし置、自余の敵には目もかけず、泰貞を心がけ相待て居たりしを、泰貞是を夢にも知ずして向ひしを、新左衛門尉と名乗かけ四五十騎どつと突かゝる。泰貞こはいかにと退かねてありけるに、浅井新三郎亮政、主の命にかはるを見よとてふみとゞまつて、歴々の武者二騎突落す。亮政もそこにてうたるべかりしに、大橋善次郎、伊部清兵衛尉、尾山彦右衛門、田中助七と名乗かけ/\亮政を討せじと取てかへし、たゝかへば味方の兵 我も/\とふみとゞまつて、難なく永原を追立たり。此時に亮政なかりせば、泰貞は佐和山へ帰城したなへば、定頼卿も荒神山へぞ惣人数を引取給ふ。

 

其日敵の首数五百討れければ、味方は三百うたれにけり。誠に昔より佐和山の城は落ちがたき城なれども、高宮、久徳降参し、泰貞武畧の達したりし故と皆人感じ合にけり。