2度目の逆心 飯尾連龍   今川家被官曳馬飯尾家

ブログでは「一旦旗を掲げたところ次には違う旗を掲げてしまうという愚」という表現をしたのですが、実はあの人、飯尾連龍の氏真に対する反逆は2度目だったのでした。ということで2度目の詫び入れ。

「2度あることは3度ある」と氏真は家臣に焚きつけられたか、2度目の詫びに赴いた駿府で謀殺されてしまったということです。

 

『永禄八極月廿日駿府二ノ丸飯尾屋敷江押詰被誅之』

                                                              (浜松御在城記)

 

『神君内応ノ由風説シ 氏真、渠(連龍)ヲ駿府ニ召寄 軍士百騎許ヲ以テ 其屋鋪 闈ミ攻テ塵ニス 時ニ飯尾ガ士二三十騎死戦ヲナス故 寄手多ク討タル』                     (武徳編年集成)

 

 

ブログでは飯尾連龍の件は案外複雑な情勢下で起こったことであり、かなり面倒くさくて、余程の戦国好ににしか興味が湧かないところかと。まして飯尾家は歴史上頻出する家系ではなく、あの時滅亡した系でもありますので、適当に飛ばしておこうと思っていたのですが、昨日の2017年大河の現場が殆ど浜松周辺限定とあって、特に「遠州忩劇」の代名詞とも言われる一連の事件の始まりですので今一度確認しておこうと思いました。

 

おそらく飯尾連龍はここで無事謝罪が済んで曳馬に帰還できたとしてもやはり3度目の逆心を抱くことは大いに推察されるところでしょうが氏真はここで彼に見切りをつけたのでした。

 

しかし誅殺するのではなく、もっと違う方法を思考すべきだったでしょう。

チャンスを与え、遠州防御の備えとすれば少なくとも事の進行は、少々の時間稼ぎ程度でしょうがある程度の抑えの効果はあったはず。とくに今川守護領国内主従の信頼関係にかなりの疑心暗鬼のヒビが深く入っていた頃でここでの若き御屋形様の鷹揚さの披露は遠州の回復のためにもあっても良かったかなと思います。

 

何しろ、父親の首桶を手にしたところに三河を家康に奪われて、かなりの焦燥感はあったでしょうが、次の家康の食指、遠州侵出が待ったなしの状況下、その西遠の橋頭保となるはずの曳馬を自らの手で騒乱状態に陥れてしまったのは氏真の短慮としかいいようがなかったでしょう。

 

今川氏被官としての曳馬での飯尾家についてはあまり記録が無いそうです。ただし今川義忠の討取られた塩買坂で飯尾長連という人が主従併せて枕を並べて討取られいていてその関係性はある程度遡れます。

小和田先生によればこの曳馬城は少なくとも連龍の父、乗連がまかされていたとのことです(系統図はこちら)。

 

出典は例の連歌師宗長の「宗長日記」(そろそろ十五夜の声が聞こえる頃ですね)。彼は色々な城・館に立ち寄っていてその折々、催された連歌会に顔を出しています。

連歌が当時の武将たちの嗜みでしたので、「宗長を呼ぶ」事がステータスだったことは間違いないところです。少なくとも曳馬の飯尾についてはこの宗長日記の記述がよく記されていてその父子どもの系がよくわかります。

 

『浜松庄-吉良殿御知行-奉行大河内備中守、堀江下野守にくみしてうせぬ 其刻、飯尾善四郎賢連、吉良より申下され、しばらく奉行とす すべて此父善左衛門尉長連、義忠入部の時に、当庄の奉行として、度々の戦忠、異他なり 剰 義忠喜久子の途中にして凶事 名誉の防矢数射尽し 則討死 其息善左衛門賢連、其子善四郎乗連、伯父善六郎為清まで、其旧号をわすれたまわず』

 

さて、しかし氏真が連龍の詫び入れを不許可とすることなどは、当の本人連龍も分かっていたようです。

事前に江馬の両家老らに

『不慮之義有之者、浜松城を権現様江差上」と遺言の如く残して出立していたようです。

文面からわかるようにこちらは江戸時代になってからの文書です。

曳馬城のことを浜松城、そして家康を権現様と記しています。

 

資料は小和田先生の「今川氏家臣団の研究」より。

先生はこの曳馬の一連の事件への収拾差配の失敗が今川家没落のきっかけになったと仰っています。

 

東漸寺の連龍の墓(再掲)と句碑

  判読しにくいですが

      「語りゆく 下駄音軽し おぼろ月」