「遠江三十六人衆」 群雄消滅の歴史

遠江は相変わらず風は強かったものの、着実に時間は進んでいます。梅は花びらすら消え失せ、新芽が葺きだし、野山の色づきもこれからいよいよ本番。

十日ほど前には掛川の奥で積雪があったというくらいですから、最近の暖かさは「ひとっ跳び」の感があります。

ただし油断は禁物ですね。

 

遠州の歴史の中で、戦国期の今川×武田×徳川の巨大勢力によって遠州を取り合う時代は戦国史上著名人の登場ということもあったということは私たちの知るところにありますが、これは比較的資料が残っているからこそのものです。

 

結果的に天下を治め安定した時代を維持した士族(松平・徳川一統)の中から著された書物が現存し、多少の脚色はあったとしても、ある程度史実に近い歴史状況を求めることはできますので。

 

しかしながら鎌倉期から南北朝期を通して力を付けてきた土豪、地頭たちの中から「国人領主」と括られる地方の実力者が現われて、遠州を割拠していた時代がありました。

戦国時代に入って駿遠を統治、戦国期最大勢力にまで成長した今川家11代の義元でしたが、遡って初代の今川国氏は三河のちっぽけな(三河国幡豆郡)地頭職でしたね。

 

戦国期の遠州の当初は南北朝の「南か北か」、応仁・文明の乱の「東か西か」の中での家同士の浮沈をかけたサバイバル競争がありました。今川家の台頭期でもあって、在郷国人層を取り込みながら斯波氏との鎬の削り合いの時代があったのです。

 

そこに名を連ねていたのが標記「遠江三十六人衆」。

まさに遠州が一つ岩に無く、戦乱の要素が十分あったことを推測できる言葉です。遠江の国が三十六分割されていたといっても過言ではないでしょう。このことも遠州に無数の城塞遺構が残る由縁でもあります。

 

そしてこの「36」という数字、平安期の三十六歌仙という歌人のスペシャリストについては耳にするものの、後世になってよく「36人の・・」とある場合、この遠江・・が初見のような気がします。

 

しかしながらこの「遠江三十六人衆」の件、その殆どが最終的には戦国大名と化した今川を始め遠州になだれ込んだ徳川、武田の勢力との騒乱の中で消滅していきます。

何しろ「三十六人衆」と言いながらすべての名は残っていません。要は資料が無いということです。

 

先にブログで記した新野や高橋そして思い付きで記せば松下、狩野、佐野、佐束、原川、二階堂、石谷、大澤、井伊、松井、飯尾、江間など(キリがありませんが)の名がそこにあったとしても不思議はないところです。たまたまというか、それを証する資料が残りません。

 

敗者は歴史から消えていくというのも歴史の過酷さでもありますね。「歴史というものは勝者が描くもの」であるなどとは少々言い過ぎでしょうか。

 

さて、「柳園雑記」という史料に出てくる「遠江三十六人衆」について以下十家が記されています。

よって今、「遠江三十六人衆のひとつ」などという表現がある場合、以下十人のうちの一統ということになります。

 1 袋井 堀越殿

 2 初馬 河合宗忠   (成信の法名) →ブログ3/26

 3   掛川 鶴見因幡 (志戸呂に入る以前)

 4   西郷 西郷殿

 5   倉真 松浦兵庫助

 6   本郷 原

 7   原谷 孕石

 8   平川 赤堀至膳

 9   小山 増田周防守

10  増田 松浦治郎右衛門

 

ちなみに時期的には上記より後の「武徳大成記」にある

「遠江衆」の名は

 

宇津山

浜名

堀江

奥山

二俣

浜松

馬伏塚

久野

原川

懸川

蔵見

西郷

角笆 かくわ

天方

堀越

見蔵

無笠

鷺坂

高天神

蠅原 はいばら

 

井伊谷―三河物語