腹十文字に掻っ捌いて・・介錯 各和(輪)城

遠州のマイナーな城の続きになります。

しかし、こちら各和(輪)城については城の所在地も確定的証拠はなく、遺構も残存していない城ですが、城主はハッキリしていて、落城の悲話等も伝えられています。

 場所はブログでも記した北条氏重の墓がある上嶽寺さんのスグ近く、各和の原に上がったところにある永源寺さんがその城の南端であると云われています(場所はここ)。

 

 各輪家の祖は今川貞世系で、今川一統分家流ということができます。

この城に付いてはその内容について色々と記されていますので、こちらでは本間八郎三郎氏清より数えて七代、本間清定が享保二十一年(1736)に表した書物(高天神城実戦記)から・・・

 永禄十一(1568)武田信玄の駿府急襲により掛川城に逃げ込んで籠城する今川氏真の時代です。

当地は今川×武田×徳川の大家が三竦みとなって所領を争う時代で、国人地侍層レベルでは「どこに付けば家が存続できるか」という選択を強いられる時期でもありました。一つ見誤れば一族滅亡の憂き目は必定の時代です。

に今川家は没落の道を辿りつつあるものの名門守護家であり足利将軍家縁故とあって旧来の主従関係からの「逆臣」の汚名はできれば避けたいところだったでしょう。

 それではその書物から抜粋した「各輪の城滅亡」の段。

 

掛川城の近く各輪村というところに掻き揚(一色城)の小さな城がある。この城主は各輪三郎兵衛で代々今川家に仕えていた。

この各輪は今川家家老の茨藤左衛門の婿であり茨一族も多く城に入っていた。

 

 家康より度々召し抱えの話があったが三郎兵衛は掛川にある今川家への思い深くその家康からの誘いを断り続けていた。

また、武田信玄配下の武将、秋山伯耆守がスクモ田ケ原に陣取って各輪方へも再三召し抱えの申し出があったが、三郎兵衛は各輪の城に立て籠っていた。

家康は石川日向守家成に各輪を攻めさせ、本間十右衛門と久野三郎左衛門を先手の案内人として押し寄せた。

散々に攻めたてられて落城寸前、三郎兵衛は城中の者共を集めこう言った。

『掛川へ加勢をたびたび頼んでみたが、救いの兵は来ない。

もはやこれまでだ。数年来の今川家の恩に報いるため、私はこの場で腹を切って死ぬが、皆の者は早々に落ち延びられたい』

そのように告げ、主従の家運を祈り、腹、十文字に掻き切って前にのめると、家人が介錯し、その刀でその家人は自らを刺し貫き主人に抱き着いて果てた」

 

 各輪三郎兵衛の一子(5歳)は、母と共に城を抜け出て、駿河庵原に落ち延びたそうです。この子はのちに「石野藤助」(以降詳細不明)と名を改め、関東に下ったという話が残っています。

 

 ここで各輪家家老の「朝比奈角右衛門」という人の話が出てきますが、おそらく掛川城三代の朝比奈家の別流でしょう。

主人三郎兵衛の死を見ずに、われ先にと城から逃げたといわれ、生き残った人々に恨まれ続けたと記されています。

 

 画像は各輪氏居館の跡地に建てられたと云われる永源寺。

こちらのお寺の開基は今川伊予守道空、天文七年(1538)ですが現地に移転されたのが貞享二年(1685)のことだそうです。

本堂・庫裏背後は一段高い段丘になりますが「掻き揚げ」の土塁・堀を推測できる「高低差」「段差」は見受けられませんでした。