本間・丸尾の末裔はその後、浜岡の豪農に

昨晩のNHK「歴史秘話・・・」は鉄砲ネタでも本願寺と雑賀孫一にスポットがあてられていました。

火縄銃の先生、砲術家の澤田氏に「世界一の鉄砲集団」と言わしめた紀州門徒、雑賀衆にあらためまして感動しました。

戦闘についての文書は当家初代の名が出る「紀伊圀名所図解」をどうぞ。番組でとりあげられていました「ケンケン踊り」についても記述があります。



さて、本間・丸尾兄弟の続きです。

天正二年の夏、高天神城西峰、二の丸櫓に立って武田、穴山方の狙撃に当たってともに絶命しましたが、両家後裔は池新田地区(現御前崎市)に帰農して繁栄し、その名は地元では結構著名で、今ここ相良の人でその名を知っている方、両家と何らかの関係がある家は案外多いです。

土方の藤田鶴南著「高天神の跡を尋ねて」に二人についての詳細な記述がありますので転記します。

 

 

「本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清の兄弟」

本間家は清和源氏の裔、源頼義の五男義政、信州常盤(飯田)に住し、その孫信高は源頼朝に従って富士川の合戦に出陣後、相州本間郡(本間依智郷―厚木市金田)を領して本間を姓とした。

 後五代景氏は元弘三年鎌倉極楽寺坂にて戦死、その子氏季は足利尊氏に属して遠州山名郡を領して久野城に拠った。

 

延元二年大塔宮護良親王鎌倉幽閉の時、好法院宮栄仁親王は遠州奥山に隠れて、文中元年足利義満の頃、山名郡高部村(磐田郡袋井市笠西の内)に入座された。本間氏は丸尾氏一木氏と共に守衛にあたった。

 丸尾氏は山名郡赤尾村を領していたが、応永二年、今川伊予入道(今川貞世―了俊)の下知に拠って京に上り、八郎三郎和泉守に任じられ、葉菊に九曜を配した家紋を附与された。



 本間氏は氏季の子、良清が永享十二年足利持氏に従い殉死し領地を没収された。長子辰若十一歳、逃れて駿河の今川氏に頼り、長じて遠州久野城番となった。

その後三代五郎兵衛長季は十右衛門とも言い、徳川家康に仕え、先祖の旧領高部郡諸井郷等を賜り河内守を称し、高部郡崖の上に住した。世人久野本間と言う。

 

 永禄十二年、家康が今川氏真を掛川城に包囲攻撃した時、五郎兵衛は掛川天王山にて討死した。

丸尾和泉守は本間河内守と内縁の故を以て嫡子の八郎三郎氏清を本間家の養子とした。

丸尾修理亮義清は氏清の弟である。

 

 元亀二年三月十三日、兄弟は家康より証書を受けて高天神城付を命ぜられて城主小笠原長忠の旗下に属し、西の丸の大将となって部下三百騎を率いて守った。

 尚、五郎兵衛の養子の権三郎正季も高天神に籠城して西退組(当時は西が徳川、東が武田)に加わり、後年家康に仕えて長久手の戦に功があった。

 

 天正二年開城の役六月二十八日、西の丸堂の尾曲輪の櫓にて、兄氏清は朝六時、行年二十八歳、弟義清は正午、行年二十六歳を以て、武田方穴山梅雪の臣、火砲の妙手、西島七郎右衛門の鉄砲の狙いとなって討死した。

 

 弟源右衛門氏重、家を継いで後、甲州にて頓死、兄丸尾義氏も家を継いで後、甲州にて戦死。その子清光二歳、母は馬伏塚岡山村知行の松下助左衛門範久の女である。十三の時、大坂(遠州)報地村知行の大石新次郎久末の養子となった。

 

 高天神開城後、家康は小笠原長忠の関係に付き、詮議を厳しくしたため、本間丸尾一類、吟味を恐れて本間八郎五郎は池新田村に隠れて百姓になり、丸尾三郎九郎は高部村で先祖の跡を継いで百姓となった。

尚、その後清光の長子清延三男清定等、丸尾氏の一族と共に池新田の開発に努め、後年横須賀藩の大庄屋として苗字帯刀を許された。現在の本間、丸尾はその末裔にあたる。

 

画像は高天神城二の曲輪―堂の尾曲輪の遺構。

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コメント: 8
  • #1

    丸尾雅典 (火曜日, 07 10月 2014 16:51)

    本間、丸尾の家系図が知りたいと思います。どなたかいらっしゃいますか?

  • #2

    今井一光 (火曜日, 07 10月 2014 20:06)

    ありがとうございます。
    本間・丸尾両家については既にご承知のことかと思いますが「遠江本間氏」に記されていますね。
    しかし家系図というものは「あまりあてにならない」という本質的な性質があります。それは、より家の名誉となる脚色をして都合の悪い箇所は消されるなど手心が加えられていることが多いからです。家康が征夷大将軍になるため(幕府を開く)に藤原系→源氏へと書き換えた話などがあります。

    そして当時から400年もの時間が経過し、一統の苗字は広く分散、各家の栄枯盛衰も重なって「本家」はともかくとして「分家」がどの流れかと確認しようがもはやわからなくなっているというのが実情でしょう。

    とにかくひとつひとつ足で稼いだ聞き取りを行って過去帳、伝わる文書をこまめにあたる他は無いでしょう。

    浜岡池新田地区には丸尾医院さんや旧町長の本間家の一統がありますのでもし、丸尾さんの系統が遠州と関わりがあるのでしたら調査してみるのも一考でしょう。
    浜岡を訪れたら土日しか開いていませんが「丸尾記念館」もお立寄りください。

  • #3

    丸尾雅典 (日曜日, 14 6月 2015 18:58)

    コメント誠に有難う御座いました。ちなみに私は、二月の高天神祭には、本間、丸尾として伺います。

  • #4

    今井一光 (日曜日, 14 6月 2015 22:23)

    ありがとうございます。
    今、相良の代官、小島蕉園の蕉園渉筆という文書をあたっていますが、「本間」の名も出てくるようです。いずれ記したいと思います。
    来年の高天神祭りは久しぶりに行ってみたいですね。

  • #5

    私も掛川市生まれの本間姓です。 (木曜日, 30 8月 2018 15:43)

    歳を重ねて、自分の出自に強い関心があります。来年の高天神祭りには是非行ってみたいと思っています。またそれまでに、本サイトでご紹介のありました浜岡の丸尾記念館を訪れてみたいと思っています。また、SNSを通して同族と思われる、本間・丸尾姓の方々と親交を深めたいと思っております。すでにそのような仕組みが出来ておりましたらご紹介頂きたいと思います。どうぞよろしく。

  • #6

    今井一光 (金曜日, 31 8月 2018 11:59)

    ありがとうございます。
    本間・丸尾に関して当時より繁盛した家で、確りした文書等が残っている筈です。
    各家一つ一つ検証にあたることも確実性がありますが、地元に伝わる文書をまずはあたって
    本間・丸尾家を調べてみるのも一手です。
    高天神関連の書物では掛川市の大東図書館に揃っています。

  • #7

    メロンアレルギー (木曜日, 28 2月 2019 00:04)

    私は浜岡町池新田出身の丸尾姓です。私も祖先を同じくする本間さん、丸尾さんとのつながりがほしいと感じておりました。私も何かあれば輪に入れていただければ幸いです。

  • #8

    今井一光 (木曜日, 28 2月 2019 07:26)

    ありがとうございます。今後新発掘の情報がありましたらご提供ください。
    よろしくお願いいたします。