久野城つづき 北条家末裔  袋井上嶽寺

昨日のブログで歴代久野城城主を並べましたが最後の

④北条氏重についてです

この名を見てここで「北条」とは唐突感がありますね。

しかし大いに静岡に関係のある方です。 

 

 このことは家康の「名家好き」というか、天正十八年(1590)の秀吉の小田原攻め直前まで小田原北条とは友好関係にあったにも関わらず(本能寺直後の北関東では小競り合いがありましたが)秀吉という強大勢力に抗することが出来ずに小田原城包囲攻城戦に参加してしまったという悔恨もあったと思います。

小田原攻め、北条家一門残党の中で家康自ら開城させて大きな咎を受けることがなかった北条左衛門大夫氏勝を保護し自らの支配下に置いたことから始まります。

 

 高天神城主で花倉の乱で滅した福島(くしま)正成の子といわれる北条綱成は小田原北条二代目北条氏綱―北条氏綱公御書置「義を守りての滅亡と 義を捨てての栄華とは 天地格別にて候 」で当ブログ既出―の娘をもらって「北条」を名のることになりました。

氏綱は綱成を氏綱の三男玉縄城主の北条為昌の養子にしてその跡を継がせて玉縄城主として守らせました。

 

 鎌倉清泉女学院中高等部の建設で縄張りが保たれているお馴染みの玉縄城は早雲の作った水軍の城です。

そういえば先日の小和田先生のブログにもありましたね。

  

数度に渡る里見氏からの攻めに耐えたという実績もあります。

綱成は以降北条家屈指の猛将として「北条五色備え」のうちの「黄備え」を担当し三代氏康の名代としても威勢を振るった人です。

その誉高い綱成の子が北条氏繁で代々玉縄城主といえば本城小田原城主配下筆頭としての役回りとなります。

 

 氏繁の子が北条氏舜(うじとし)と北条氏勝の兄弟でした。

北条氏勝は長子の氏舜の死後玉縄城を継承します。 

  

 北条氏勝は秀吉の小田原攻めの際は箱根、三島側、小田原北条の玄関口の山中城を、代々「玉縄城主は先鋒」の例に違わず籠城していましたが強大な人海戦術の秀吉軍に一掃。

自刃を諌められ玉縄城へ退去したところを家康に説得されて開城。以後家康、秀忠二代に仕えました。その北条の家督は養子の氏重が継ぎました。

 

  さて保科正之は松平会津藩の祖で信濃高遠藩主が大元でした。その保科の四男が北条氏重です。

 

それでは北条氏重の経歴を列します。小田原から始まって駿遠各地の城主を勤めました。

 

1613(18歳)小田原城城代→下野富田城主

1614大坂冬の陣榊原康勝配下

1616日光普請役

1618伏見城城番

1619久野城主

1622 横須賀城城番

1628 江戸城西の丸石垣普請役

1632 増上寺御廟普請役・田中城城番

1634 家光上洛に供奉、二条城西門番方

1635 大番頭

1640久野城→関宿城へ転封(関宿城はここ)

1644関宿城→田中城へ転封

1648田中城→掛川城へ転封

1658掛川城にて病没63歳 大徳寺へ

1688~1704氏重開山の上嶽寺に改葬

 

画像は袋井の上嶽寺(場所はここ)の北条氏重の墓と奥方(右)。

左は家臣の 河野作十郎という人の墓とのこと。

御気の毒なことですが安政の大地震で墓石は崩落し、原形を留めていません。以来ずっとこのままだとのこと。

家臣らしき方たちの墓石も左右に4、5基があった面影が残ります。

 

掛川北条家は残念ながら子供5人がすべて女の子で改易となりました。