窪地に牛  牛久保城の前身 一色城

室町幕府内で幅をきかせた名家といえば源氏を出自とした「三管領」(細川・斯波・畠山)、侍所の長を交代で執った「四職」(一色・赤松・京極・山名+土岐)で、いずれも「守護大名」と呼ばれる名門です。

各家下剋上戦国期に入って退潮ギミ、一部その名を留める家もありましたが、没落滅亡の憂き目からは逃れられず歴史上マイナーの類に落ちて行った系統もありました。

しかしそれらの分派、末裔は日本全国に散らばって今もなおかつての名声を思わせています。

 中でも京極系の佐々木、六角、あるいはそれらの被官グループまたは彼らとの関わりが推測できる近江国人衆の存在は「近江好き」にあってはどうしても注目してしまうところです。

 

 さて先日ブログで勝手ながら「牛久保は面白い場所」と記し、牧野家の牛久保城牧野成定について記しました。

「面白い」一つの理由が下剋上という究極のエゴイズムむき出しの人間が世の中の風潮が変わることにも翻弄され滅亡と栄華とをその刹那の間過ごした人たちがいるということと、この地には微妙に時代を違える著名人の墓が偶然にあるということです。

 

 その牛久保城は元の名があってそれまでの名は「一色城」。永享の乱、応仁の乱が絡んでいますので複雑です。

藤枝の田中城も今川時代は「徳之一色城」と呼ばれていましたね。

「田中」とは「田圃の中」、武田勢侵攻以降の名でした。

 

 こちらの一色城は一色(刑部小輔)時家が築城したもので、彼にも「窪地に伏せた牛」の伝承が伝わっています。歴史につきものの「混同」ですね。

 永享の乱で叔父の一色直兼と、あの三の姫様の御父上、足利持氏方の大将として関東に出兵しますが何せ幕府側を本気モードにさせてしまいました。

後花園天皇の綸旨と、錦御旗付の出動出兵があり、当然ながら賊軍となってしまい敗色露わ、一色本流守護国の一つである三河のこの地に敗走しました。

一色時家は再起を図るべく郎党を率いてこちらに、そして一色城を築城したわけです。

 

 一族の反乱とも取られかねないこの時家の処遇に関しては幕府内でも禍根を残し、一色氏主流の幕府侍所所司だった一色義貫が、反幕府軍の残党である一色時家を匿ったという咎で将軍義教から謀殺されてしまいました。

 

 足利家末流で名門の一色義貫は一色家最盛期の人で山城・三河・若狭・丹後+尾張二郡分郡という強大勢力まで伸ばした人ですが、一統内部での親戚縁者抗争が多く、また上記の理由もあって足利義教から嫌われたのでしょう、主な近親一族とあの信貴山で殺されました。

将軍からの直接の因縁は時家の件だったので甚だ迷惑な話だったでしょう。

 

 この結果三河守護は細川家に移り一色時家の三河在留のそもそもの根拠が薄れたところ、応仁の乱最終年の1477年に家臣の波多野全慶に謀殺されて一色城を奪取されてしまいます。

その波多野の下剋上も当初は暗黙の了承が世にありましたが、のちに幕府側と古川公方足利成氏(殺された持氏の子)との和議が成立して持氏の名誉回復と成氏の関東公方が追認されました。

そうなると一色時家を討った波多野の根拠と正当性が失われたということになります。1493年、その波多野を滅ぼしたのがやはり一色時家の被官であった牧野古白です。

勿論その大義たるや「主君の弔い合戦」です。

この牧野古白の大きなスパンの中での計略ともいえる城主交代が後の牧野家繁栄の礎を築いたのでした。

日本には何かやるにあたってのちのち後ろ指を指されないための「大義」が必要なのです。

 

画像は旧一色城縄張り内の牛頭山大聖寺(場所はここ 豊川市牛久保町岸組66)にある一色刑部小輔時家の五輪塔。

そして現存する一色城遺構、堤です。

木柱には「永享十一年(1439)一色刑部小輔時家 吉良より来て城を築く」とあります。「保障」の「保」とは城、「障」とは砦を意味します。カタカナの「カキアゲ」とは「掻き揚げ」。

築城用語です。掻いて掘り下げた土をそのまま積み上げて堀と土塁を作ることです。