秀吉の二枚舌  後世氏政評価  ボロクソ暗愚の将

「線状降水帯」については最近になってその被害をよく耳にするようになりました。

昨日夜遅くからの降雨。早朝にかけて、ここ遠州南部はその積乱雲の続けざまの通過があったようです。稀に見る土砂降りで目が覚めましたが、布団から出ようというきっかけは何といってもあの雷の音。

さすがに沖縄の海で味わったような「カリカリカリ」という「今から行くぞ」という落雷を引率するような前触れの音はありませんが、ときおり遠くの方で「ドカ~ン」と「こりゃ絶対落ちてる・・・」と震え上がらされました。

 

寝ていられないハラハラ気分になるのはやはり、本堂が心配だからです。雷に照準を合わされたらどうしよう・・・(何せ屋根が高いので)と色々考えが交錯してきますので。

雨がやみしばらくたって朝のニュースを見ようとテレビを点けて仰天、あの雷は相良より少々西の磐田市福田(ふくで)で立て続けに火災を2件起こしていました。

 

双方共通点があって、ともに織物工場で直線距離は300mとのこと。背丈は2階程度と思われそう高い建物ではありませんが「配電盤の燃焼が激しい」ということ。

原因が直接落雷ではなく付近電柱に落ちた雷が電線を逆流したのかとも感じます。

よく直接落雷が無くても、家電が壊れたり、パソコンが動かなくなったなどという話も聞きますので、どのようなメカニズムで分電盤が火を噴くのか知りたいものです。

 

ただし織物工場は昭和の末頃まで相良にもたくさんありましたが、繊維が工場内に浮遊し、電気系の接点やコンセントにも堆積することがあるといいますので、その手の出火原因となるリスクは一般家庭より多いかと思います。平日の昼間でしたら対応が早く、被害を喰い止めることもできましょう。

まったく天変地異の気まぐれに対して人間は為す術がありませんが、運、不運もありますね。

 

一昨日「失敗に学ぶ企業経営」という記事に歴史からの切り口として小和田哲男先生のお話しが新聞紙上に掲載されていました。同じ学ぶことで歴史上の人物の行動からそのヒントを得るという考え方は同調できるところで、その手の企画記事に歴史学者を1名加える(他に技術者と経営者のコメント)企画はうれしいところ。

 

小和田先生の紙面は「成功体験断ち、情報重視を」で、結論としては「北条氏政になるな」ということでした。

「武将の器量」という点では2代目以降からは「名門意識」が芽生えだし、現状胡坐をかきやすいということです。

 

先生は「武将たちは新興企業の経営者と似て、あらゆる情報に耳をそばだて、リスクとチャンスをより分けて勝ち残りを図る」と戦国の世の命がけについて触れていました。

今でいう起業家、ベンチャー企業のような成り上がりを狙う者は必ず出てくるものです。

 

それらの成り上がり(秀吉)から出た一人に「よもや自分を亡ぼすことなどはありえない」と安閑としていたのが関東領域の覇権を最大に伸ばした小田原北条氏康を父に持つ四代目の北条氏政でした。

今や北条家を梟雄呼ばわりする人はいないでしょう。

父系は幕府近臣執事の伊勢家で氏政の母は今川氏親の娘(瑞渓院)、そして正室は武田信玄の娘。関東の名家と自負していたことは確かです。見方を変えれば「お坊ちゃま」として周囲からホイホイされて育ってしまったということかも知れません。

 

成功体験による過信と安閑そして情報不足が命取りとなったのが北条氏政でした。まぁその辺りの差配はいわば隠居後(死去は五十二歳)でもっと早く実権を氏直に譲って息子の政に口をはさまないようにすれば良かったのです。いつまでも実権を握りトップに居座り続けた例に好印象はそうありません。

 

氏直の正室は家康の娘の篤姫で、秀吉とのパイプ役としては家康の力は絶好でした。しかしその家康の力を見くびって活用できなかったのは「松平家は今川家家臣団の一画だった」ことによる「お前の指図はうけない」的な考えが氏政の頭のどこかにあったのでしょう。

その点も氏政の人を見る目は無かったと推察される点ですね。

 

さて、小田原城は秀吉の思いのまま、無血開城と相成り、そのための北条氏と成立させた領地縮小ながら安堵に延命の約束もすべて反故にするという「卑怯」をやってのけます。

そのような非紳士的暴虐なところに家康は鬱積が溜まっていったのでしょう。「死に待ち」ですね。

 

さて、生き残れると思って開城した氏政、「やっぱ切腹して」と申し下された時はさぞかし悔しかったでしょう(氏直は高野山追放)。氏政と弟の八王子城(またはこちらこちらそしてこちら)

主の氏照が切腹(その他家臣団諸々)し、小田原北条氏は滅亡します(小田原駅前の墓)。

 

彼の場合はただの切腹に留まりませんでした。

その首は秀吉の権威宣伝と見せしめを兼ねてわざわざ京都に運ばれたうえ罪人としてさらされています。

運搬中は塩漬けにしているとは思いますが、京都から小田原に還る頃ともなれば季節も夏、顔などもはや見ることはできないレベルだったと思います。

まさか死したあとまでそのような屈辱を味わうとは誰も思っていなかったでしょう。

 

実は氏政の墓は小田原駅前のもの、湯本早雲寺のものとは別にその首を納めた首塚が富士の源立寺に遺ります(場所はここ)。

家臣の佐野新左エ門なる人が見るに見兼ねて首を持ち出して小田原に向かう途中、富士川の氾濫で足止めになってやむなくこちらのお寺に埋葬したといわれています。

 

地図から見ると今の富士川の流れは墓より西、流れが変遷していることも考えられますが、その様子からいえば渡り切った位置にはなりますね。

 

宝篋印塔上部の部分が本来の墓石のようですが、墓石自体も川の氾濫によって流出し破損しているようです。

北条家の家紋も見えますが菊の紋も目を惹きます。真言宗の京都東山「御寺 泉涌寺」派ということです。

御寺とは皇室菩提寺の尊称で陵墓がその山(月輪山)に散在しています。

 

最後から2枚目の画像は富士の工場街をバックに。最後の五輪塔もイイ味が出ていますが氏政の首塚同様、上部の火風空は原型としても地水はつぎはぎ感が出ています。

ベースの赤っぽい四角い石はその辺にあったものを「適当に据えた」という感じです。