さすが関東トップクラスの山城 八王子城

近江、美濃のスケールの大きい山城に接する機会が多い私は、地元駿遠相州武蔵のコンパクトさ、そしてどちらかといえば技巧的な作りの山城、平山城の多さにその地域性というものを感じていました。

しかしこちら八王子城(場所はここ)に関しては、その考えを一掃するほどにそのスケールは大きいものがあります。

 

城の守備難攻度というものはスケールメリットよりも立地重視ですのでただデカければいいというものではありませんが、この八王子城の縄張りとの大きさ標高445m(比高約240m)は圧巻ですね。体力的にへこたれそうになりました。

特に登城した日は午前中が法務、終了後1400から滝山城にとりついてからそちらを見学、そしてこの城に向かいましたのでほとんど城の駐車場に到着したのが1700前。

ところが駐車場は1700にて施錠するとのこと、慌てて車を外に出しに行く始末で、あたふたでした。

 

申し訳程度の訪問で、コレだけの城を支城、各砦を含めかつ外周を歩いて、全容を知るのは不可能。お恥ずかしい限りですが、完全掌握には2~3日は要するでしょうね。

そのように贅沢に時間を消費できる身分ではありませんので、とにかく小田原生まれ小田原育ちの私は、小田原城の第一の支城といわれた八王子城に一度は顔を出したいということで少々無理をしました。

 

しかし八王子城は小田原北条の早い時期からあった城ではありません。当初は当地大石家に婿入りした北条氏照が永禄年間に武田勢に攻められてその脆弱性を露見させた滝山城を諦め築城を開始させたというのがこの城です。

氏照は北条最盛期を演出した三代氏康の三男で惣領となった次男北条氏政の弟です(長男は夭折)。

 

あまりに大きな縄張りで着工開始したであろう元亀二年(1571)から相当の時間を要し本格的に氏照がこの城に入ったのは天正十五年(1587)といいます。

そのあとすぐ天正十八年(1590)には秀吉の小田原征伐が始まって城主氏照率いる主戦力は小田原へ移動。

秀吉は大勢力で本城小田原の外周に点在する関東の城を同時攻略しましたが、氏政はじめ小田原勢は本城小田原さえ守れば乗り切れると判断し、支城の城主を呼び寄せ小田原総構えに入場させました。

そうなると残るは城主不在の城たち。残存勢力で戦わされるということは、結果的に殆ど見殺し状態になったのでした。

 

ありあまる兵力を誇る秀吉軍は余裕の総勢15,000(上杉景勝  前田利家  真田昌幸)を八王子城攻撃軍に仕向け、籠城軍3000(城代の横地監物吉信)を包囲します。

 

籠城軍3000と雖も女子供多数+領民(非戦闘員)らの急造兵力の混成だったといいますので「戦闘開戦」の状況には無かったでしょうね。

籠城の体が取れていない城に対する攻城勢の主力三者の名を見れば、どう考えても「役者が違う」の一言でしょう。

そのうえ単純兵力差は3倍。

攻め手各家の重臣は推測するに猛者たちの存在。上杉に直江兼続、前田慶次、真田と言えば一統タダモノでは無い強者揃いを連想します。よって籠城軍に為す術は無く攻め手としてはまさに力攻めでOK。少々無理をしてでも時間をかける愚はとれないところ。

 

広大な城に少ない兵力の籠城ほど落としやすいものはありません。兵力を集中させないことに尽きます。攻城は大手口と搦め手からの二方面からの攻め手によって守備兵力を分散させました。鉄砲の的にならぬよう夜露降る夜明け前の朝駆けは攻め手の常套、即日で落城しました。

 

城そのものは氏照の守備の構えに思案したあとが見えます。

容易な登城を許さないよう尾根部をひな壇式に作って横矢を入れられるよう曲輪等を配置しているなど、氏照の本隊精鋭が八王子城に入っていたとしたらもっとあの3者の軍勢を苦しめたことでしょう。

 

結局はこの八王子城落城の報せを聞いて氏政・氏照兄弟は小田原開城の決断をしたと言われますが、何ともあの時の北条家中の中途半端な裁量が悔やまれましょう。

結局滅亡の憂き目だったのですから。そして全滅に等しい八王子城守備隊と潔く自害した女子たちの事を考えると、時代の流れに抗ってつまらぬ意地を張る事がいかに悲惨な結果を招くのかという最悪の例を後世に残してしまいました。

 

①は氏照が永禄七年に再興したといわれる宗関寺。

その寺の前にあるのが②の掲示板。この寺は横地監物の屋敷跡と伝わっています。

本丸までは①よりしばらく行った「ガイダンス施設」というミニ資料館の駐車場から出発します。途中坂が急になる場所がありますが、階段造作部は段差の高さはそう気にならない高さで上り易さを感じました。途中の東京都心方向の遠景は壮観です。

コンディションがさらに良ければ絶景でしょうね。

画像は中腹辺りからの図です。

 

本丸は猫の額ほどの狭い場所に祠と石碑が建っててました。

こちらを守ったのが横地監物吉信でした。この狭い場所は追い詰められた守備軍の徹底抗戦による最激戦があった地で攻め手かにも多くの死者が出ています。

その乱戦の中、横地監物吉信は檜原城にまで逃げ切り、そちらでもさらに抗戦したのち自刃して果てたとのこと。

遠州人としてこの名「横地」を聞けば菊川横地城の横地家が想い浮かびますが、その流れの人ですね。何せ遠江横地が横地姓発祥の地ですから。