「八王子」の称は牛頭天王と八王子  中山勘解由 

日本中各地域で見られる「王子」の地名はまず牛頭天王の「八人の王子」に関わる名称からでしょう。

真宗「一向専念無量寿仏」の世界からはまったくご縁がないのですが釈迦が生れた祇園精舎の守護神が「牛頭」で、祇園信仰の仏です。もともと神仏混淆の中にありましたが、明治以降の神仏分離で神社形式となりどちらかといえば「神」としてのイメージがあります。

 

その「牛頭の王子」×8ということで「八王子」。

北条氏康の書状にこの山(深沢山)に築かれた八王子社をもってこの地域の名称を「八王子・・」という記述が残るそうです。

 

今、東京では「高尾」登山がブームとのこと。

時たま拝見するテレビ画像によれば、家族連れから年配者までかなりの人で賑わっているようです。これは交通機関、特にケーブルカーなどの利便性によるものなのでしょう。

 

自然環境としては高尾山とは同等、いやそれ以上の深沢山(八王子城)です。私が登城した時間帯は少々遅めでしたが、人っ子一人すれ違う人は居ませんでした。都会の雑踏から訪れた自然がこれまた「雑踏」でお土産屋さんや食べ物屋さんが並んでいたら興ざめでしょう。

鳥の声と山野草、風と山の香りに触れるには八王子城の散策を是非にお奨めいたします。

 

本丸へ上る前の平坦地にその八王子権現社があります①②。

③は②に見える石碑ですが、左右対象に置かれたのは五輪塔「風と空」の残欠の如くに見えます。

この権現社から東側に一段上った場所が松木曲輪と呼ばれ、由緒書には「中山勘解家範」の守備とあります。此の地での奮闘が目覚ましく、攻め手の前田利家が助命を申し入れたそうですが史料では討死しているよう。

 

その嫡男の中山照守という人も父家範とこの曲輪で戦っていたといいますが逃れて潜伏。やはり父の戦働きの噂を聞いた家康に見出されて秀忠の使番に。

のちに秀忠大失態の関ヶ原の際の上田城攻めの「勇者」、「上田七本槍」の一人に数えられるほどです。まぁ負け戦であったはずのその戦いにまるで勝ったかの如くの「演出」は最終的な勝ち組の為せる業だったのでしょうが。勘解由の通称は代々受け継ぎ大身の旗本として中山の名跡を残しました。惨敗の八王子城にあって珍しく後に繁栄した家系でした。


最後の画像がお向いの高尾山と遥か東京湾。