八王子城に伝わる墓域 御主殿は集団自決の場

思い出してください。先のNHKの大河ドラマ、黒田官兵衛の第一話の全体ストーリーの導入部分です。

小田原城を包囲した秀吉軍の城の明け渡し勧告に一人石垣山(笠懸山)を降りて小田原城に足を引きづりつつ、神妙、鬼気せまる形相で城内に入るシーンでした。

 

この演出は間違っていないでしょう。

大軍を率いての戦陣、いくら戦闘好きの武将でもその余裕から出てくるものもありますが、まずは余計な戦闘を避け、双方人馬の消耗を極力減らしたいということもあって、できれば「無血開城」を模索することは当たり前の段取り。城攻めを準備する家臣団へのパフォーマンスの意もあるかもしれません。

まぁその点も大いに期待度は高いものがありますが、攻め手側の本心としては、力攻めともなれば、勝利はわかっていても、城内に残る「財物」―これは金銀財宝の類から人身売買の対象である女子供そして、城域の建造物―をもみすみす消滅させてしまうことから、その果実を期待しての「無血開城のための講和」を打診するわけですね。

 

「城主ら責任者が腹を切れば・・・」等の条件を飲むことになりますので、籠城側としては苦渋の決断となりましょう。

そういう状況の中、官兵衛の第一話は緊迫した中、講和条件を引っ提げて秀吉の使い番として小田原城に乗り込んでいったのですが、籠城側の選択肢としては二者択一です。開城して腹を切るか城を枕に討死かですね。

 

戦国期、後者(抗戦)を選択する例は多々あって、その「回答」の出し方というものはまず、使者を斬り捨ててその首を晒すというやり方です。

ということで、あの時北条側が徹底抗戦の線を通し、いわゆる小田原評定といわれるような、一向に結論が出ない、現代流行りの「一同指示待ち」状況のような雰囲気がもし無かったら官兵衛の墓は小田原にあったのかも知れません

そういう生きるか死ぬかの重大役回りのシーンだったわけですね。あの時の開城の決断により前城主北条氏政と八王子城主の氏照、そして大道寺政繁、松田憲秀が切腹、城主五代北条氏直は高野山に追放されて、小田原北条家は滅亡。小田原の町とたくさんの籠城兵(専業兵士以外の農民・町民の俄か兵士多し)の命は救われたということになりました。

ここで氏直が助命された理由は家康の元娘婿であったということもありますが、殆どこの小田原「籠城の意固地」は隠居とは言いながらも依然その意を振るっていた前城主である父親の氏政と叔父さんの氏照の影響が強く、氏直の意思は通じていなかったといことが推測できます。

 

さて、八王子城の攻城も攻め手は余裕、前田利家は籠城方に使者を遣わしたといいます(北条記)。

内容は

「関白様の出向である」です。

「周囲の城もすでに明け渡されている(無駄な戦いはよして)ので城は早々に御渡し願いたい。さもなくば、攻城いたします」とのことだったそうですが、恭順配下の武辺ものの城代(横地監物吉信)の意向だったのかその意を伝えた使い番は斬り捨てられたそうです。

城側の抗戦の意思表示でした。

 

さて、この城は小田原と違って、本城小田原が戦わず(散発的な戦いはあったにしろ)開城したということから結果的に無意味な戦闘、いわゆる後世そういう死に方を「犬死」と言ってしまっては気の毒ですが、悲劇的結末を迎えたという地でもあります。

女子供と兵卒以外の臨時兵士の寄せ集めの籠城3000人の殆どは討死、そして自害。攻城側の死者を1000人と見積もってこの山腹から麓まで夥しい死者が出たということです。

 

殊に昨日記した御主殿付近では戦闘による死よりも自害して亡くなる例が多かった場所です。城主氏照の不在を守る正室の比佐は健気にもこの御主殿で自刃、その他大勢の婦女子は御主殿脇の城山川に身を投げたためその川の滝は三日三晩、血に染まったと伝えられています。

 

発掘調査によれば大き目の建造物2棟と「池のある庭」があり、大量の遺物(といっても欠片から・・・)が発掘されています。

特筆すべきは日本で唯一発見されているベネチアで生産されたレースガラス器とのこと。

優雅な日常という時間の流れは刹那でその地は阿鼻叫喚の修羅場へと変わって行きました。

 

またこの八王子城と根古屋付近にあたる宗関寺の間から城への別登攀路の途中に古い墓地があります。

氏照と家臣団の墓地とありますが、氏照の墓地は小田原にあります。こちらは後世建てられた供養塔です。ただしイイ味が出た墓石です。というか背後の荒れ果てた感じ、傾いて埋もれつつある墓石群、時間の流れと無常を感じます。


この墓碑は、先日ブログにて八王子城で奮戦した中山勘解由家範の長男の中山照守について記しましたが、その弟の中山信吉の孫の中山信治が氏照の百回忌法要を機に建てたそうです。

激烈を極めた八王子城に籠り、九死に一生を得て、その後その系統は徳川家に優遇されたという現状を見て、彼がここに手を合わせるという気持ちが沸き起こったということ、大いに頷けます。

「今の自分があるのは100年前の御先祖のおかげさま」という気持ちですね。現代人からは消えつつある思想のようです。

 

氏照墓の左が中山家範、右が中山信治の墓。

背後は氏照家臣たち。途中五輪塔残欠がちらほら。

 

肖像は早雲寺蔵の北条氏直。