相良の幕末勇士

牧之原市成立時、私は相良より離れた場所にいたためそのいきさつについては不明ですが歴史的な名称からすれば現在の牧之原市の名称は甚だ不可解ではあります。

今は何とか慣らされましたが気持ちとしては当初、島田・金谷の一地区の名称が相良の新しい名称になったような気がしたものです。

今でもここいら辺りの会話で「まきのはら」と云えば東名牧之原インターより金谷側の台地をイメージしてしまいます。そもそも「はら」という呼び方もありますが「はら」と言えば海岸部の呼び方では無く台地の上のことです。

その大きい意味での牧之原台地に広がる牧草の原と雑木森林の台地を開拓し、今のこの地方の最大産品であるお茶畑の開墾を行った人々が元幕府方の人々です。

旧相良町現牧之原市の名は旧金谷町現島田市の武田方の城、諏訪原城が落城のあと徳川の手で改名されて「牧野城」を名乗ったようにかの台地は古来より牧草地の原(はら)であって牧野原と呼ばれていました。

合併時にその呼び名の通り野→之にして銘々されたようです。

 

慶応三年(1867)、15代将軍徳川慶喜が大政を奉還して江戸城から水戸に退く時、慶喜の護衛に当たった精鋭隊(のちに新番組)は慶喜、徳川家を継いだ家達とともに駿府(静岡)へ下ります。

駿府府中が改名されて静岡となり、徳川家達が藩知事となると新番組は当然のごとく使命を終えて解散しました。慶喜に従った大量の武士たちの失職と、明治政府に抗う武士団も当時は駿府周辺に集結しておりましたが徳川家はそれらの人々を養う力はすでに無く一斉に失業者が出てしまったのです。当時代はこれまでの施策の転換期でもあり大井川川越しの人足や川越しに関わる人々の大量失業もあってこの地は大きな変革を余技無くされたのです。

 

中條景昭像
中條景昭像

新番組の隊長の中條景昭はその様な状況の中勝海舟の仲介のもと「金谷原開墾方」の長として組織だった台地原野の開墾をすすめ、多くの幕臣たちが刀を鍬に持ち替えてそれに続きました。

 

銅像の背後には大井川と西には「茶」の印で目立つ掛川の 粟ケ岳が望めます。ハイキングと割り切れば大井川にかかる蓬莱橋を渡って台地を上がっていけば銅像に辿れます。蓬莱橋は台地開墾のため島田からの往来の便の不都合から作られた橋です。

 

 

茶畑開墾に燃えた幕臣たち

この地に骨をうずめたであろう幕臣の方々です。

帰農した幕臣をご先祖に持つ茶農家が今も続きますが、ここ相良にもこれらの御先祖を持つ家々が残ると以前から聞いております。

指導者であった中條景昭の娘の系統の御子孫あるいは記念碑に記された「谷口原居住」の今井信郎などは最たるものです(残念ながら当大澤寺の今井姓とはつながりがありません) 。

 

竜馬を斬った男

どちらの政治家のみなさまもいまだその名をよく発します。

オヤジの永遠のアイドルのような存在なのでしょうか大河ドラマも終わった最近であってもよく耳にします。

 

評価は人それぞれですが私は小学生時代のテレビドラマの影響で「新撰組」好きということと家が「寺でお東」ということから薩長閥と明治政府の施策にある意味嫌悪感を抱いていました。

また出自は異にするものの私と姓が同じであって「竜馬を斬った男」として名を馳せそれでいて当地近隣の初倉村の村長職に就き、榛原高校の前身である教育機関設立に尽力したという衝撃的的かつ破天荒な人生を歩んだ今井信郎に強い親しみを覚えます。

 

そしてその人の御子孫も本家ではありませんが相良にいらっしゃいます。

 

牧之原開墾先駆者の記念碑 種月院
牧之原開墾先駆者の記念碑 種月院
中條 今井 墓碑
中條 今井 墓碑

島田市初倉は東名吉田インターの先新幹線ガードを越してスグ左に曲がると種月院があります。

 

このお寺には中條景昭家、今井信郎の墓碑があり、二人の経歴を表した石版が建ちます。

今では竜馬を語るのが「わが志の素晴らしさを表明するに近しい」アイドル的ブームであるかのようなご時世ですが司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で日本近代史にデビューしたことは周知のとおりです。

 

 

私のその時代のイメージの構成は同氏の「燃えよ剣」のテレビドラマによるチャンバラごっこからですので敵と言えば薩長土佐なんですね。

よって「竜馬を斬った男」と呼ばれる今井信郎には特別な愛着があるのです。

 

竜馬が生きていればその後に総理となる伊藤博文あたりから比べて「格上」であり勿論国政に関与すれば相当の地位に上り詰めたであろうことが推測されますので、また維新以後の極端な西欧化と侵略戦争への道をこの人だったらどうしたかということを考えると「生きていれば」という興味はあります。しかし史実は史実。

 

「志」という安直な言葉で言い表せば今井信郎もここ中遠地区で今のこの地の礎を築いたという点で大きな功績を残しています。

 

今井信郎屋敷跡

 

今井志津(信郎次女)伝
今井志津(信郎次女)伝

今井信郎の役職は京都見廻組。

今でいう精鋭の機動隊みたいなものです。

幕府直轄の警察、特別応援隊のような形で京都警護の指令をうけていたいわゆるお役人です。当時は坂本竜馬は殺人犯としての指名手配人でした。

 

 

「竜馬を斬った」とか「暗殺」いう衝撃的な言葉だけが先行しがちになりますが「下手人の捕縛あるいは切る」ということは当然遂行の彼らの職であったわけです。

 

竜馬死亡のいきさつは、今井信郎の罪を減刑したと言われる西郷隆盛西南戦争に立った時、政府軍として熊本城の城郭を焼き払うまでしてたて籠もって何とかしのぎ切り、隆盛の敗戦を決定づけた谷千城が今井信郎の自白について執拗に反論したといわれます。竜馬の死そのものを闇に葬ろうとしたため其の後色々な説が面白おかしく語られたものと思います。私は竜馬への厚い思いを持つ旧土佐藩士の谷が一時の感情から歴史を恣意的に歪曲しようとした結果と解釈しております。

 

維新=封建体制の打破(≠民主化)という言葉も流行り言葉の様に使われますがそれこそ「明治政府=薩長閥」を頂点とする極端な欧米化侵略体制(富国強兵政策)に突き進むきっかけであり日清日露そして十五年戦争(~太平洋戦争)の自国他国の民衆の苦難に続いていった歴史を真摯に反省しなくてはなりません。

時間の問題で数年の遅れはあるにしろ幕府は開国し新しい体制に移行したと思いますし一時は円滑に大政奉還をしているにも関わらず戊辰戦争にまで発展させたことには薩長の大きな野心を感じざるを得ません。

 

 

今井志津(信郎次女)伝
今井志津(信郎次女)伝

庚午(1870)九月廿日申渡    静岡藩

    禁錮三年     元京都見廻組

               今井信郎

 

右之者義本文禁錮年限相満候上は 

平常之通相心得候様於其縣申渡 

其段可被届出候此段兼而相喜也

 

 壬申(1872) 五月廿四日  司法省 

   静岡縣

今井志津縁組 相良へ

今井志津(信郎次女)伝
今井志津(信郎次女)伝

縁組届

初倉村坂本

二百六十番地

 今井信郎ニ女

  今井志津

 

右之者本郡相良町●●●●●番地

 

平民●●●●●妻ニ差遣シ候間

 

送藉被下度此段及御届候也 

      右 

明治廿三年九月廿ニ日 戸主 今井信郎

 

初倉村村長 堀本頴一郎殿

今井信郎の書面

志津嫁ぎ先へ見舞いの返礼
志津嫁ぎ先へ見舞いの返礼

 朶雲拝誦今回者遠方迄  態々(わざわざ)御出張ヲ煩ヒ何共

恐縮萬謝ニ不堪候早速拝趨  可伺処気候の変カ両三日

甚タ不出来ニテ静養  罷在候間気候少シ宜アリ

次第趨可仕間四五日ノ処  ご猶豫被下度奉願候尤モ

身体ニハ敢テ故障モ無之只  脳ヲ疾候為閑急快不快アリ

甚ラシキ時ハ萬事忘却シ  子供ノ名前モ失念シ端書位

ノ短文ニテモ出体ヲ忘シ人ト対話致候事モ支閊獨リ静ナル処ニ

居リ小鳥の声雨ノ音エオ聴  事わ何となく楽しく

存總テの物無常ヲ惑シ候  思ふに一歩ニ悲憾ニ沈淪致

罷在候嗚呼人世の一生わ甚  短キ者ニ有之候四五日中ニハ

両頬晴頬定リ候次第速カニ  拝趨可仕候右ハ貴酬旁

得御意度候拝具

     初倉村      今井信郎

五月四日

兎角不勝之天候ニ候得共  皆々様障リ無之大賀候

次ニ当方無事御安心被下  本月二十三四日頃迄ニモ畑小作

料取立仕舞ニ付鳥渡  参上可仕候平三郎事も

失踪以来六ケ月ニ相成候  間其侭ニ致置候次第ニハ

不相成候間皆々様之御協議之上何トカ法方相付度

慎一郎モ今回ノ決算相済  次第帰宅職業相営候

様致度夫是新家様始  一層之御尽力相願度相

続人確定ニて堀田氏ニモ  相談致度候間可相成ハ新

家庄作様ト日時ヲ定メ被下  度御依頼被成御承知次第

参上致度候御帰国ハ何頃  相成候哉鳥渡御知らセ被下

度候例ノ金子幸便ニ任セ差出  候御請取被下度候書余面談 

五月十一日          今井信郎

 

 

当家の伝承

当家には今井信郎にかかわる遺物が多く遺されていますが、まるで本家の様です。

娘への愛着がよほどあったのでしょう。次女志津の名は府中から名を改められた「静岡」の静からとられてものでしょう、宛名に「静」という字も見れました。

 

また「しず」と命名された刀もあります。

信郎の愛娘への気持ちが手に取るようにわかります。

刀剣については夥しい数が残されておりますがまずは「竜馬を斬った刀」の存在についてどうしても興味がいくものです。しかしその刀については今井信郎の師匠榊原鍵吉にどうしても欲しいと懇願されて手放してしまったということで当家には伝わっておりません。

 

しかし通称「回天」という刀がありました。

戊辰戦争を箱館戦争まで戦い抜いた刀で「死」に関して「いつでもどこでも」という覚悟からか刀の柄の部分には両面にそれぞれ「塔婆と骸骨」(野ざらし)の飾りが配らわれ目を惹きます。

刀身は骨太で重たく「片手斬り」で振り下ろされれば一太刀で絶命させられるであろう「幕末の刀」を感じることができました。

 

 

 

 

 

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