相良の町を飲み歩いた山岡鉄舟 布施石油

母が常陸鹿島神宮神官で塚原石見の娘、剣豪塚原卜伝の子孫で剣の道では血脈も申し分なく、実際に鹿島神傳直心影流、北辰一刀流、そして無刀流の開祖でもある剣術家、山岡鉄舟は身長188㎝100㎏超の大男。

世にいう「江戸無血」のために駿府の西郷隆盛に直談判に単独で乗り込んで話をまとめた話はあまりにも有名ですが、上記の様な、当時の日本人とは比べものにならないくらいのズバ抜けて屈強そうな容姿で、おそらく「剣の道では誰にも負けぬ」という自負から醸し出す鬼気迫るものを感じ取らない人は居なかったでしょう。薩長官軍の兵卒で彼に詰め寄れる者は唯一人として居なかったのも無理は無いことでしょうね。

よってあの「直談判」は彼だから為し得た所業だったと思います。

 

鉄舟は剣の道での剛腕振りは誰もが一目を置きましたが剣術の修得と並行して書を鍛錬し、弘法大師流入木道52世としての書家の顔も持っています。

駿府に乗り込んだ時も鉄舟は「大小」も持ち合わせぬくらい貧し、身に着けていたものは借り物だったそうですが、ここ相良にやって来た時も石坂のような山師的感覚の浪費家では無く、ただただ豪快無比で「金欠の酒飲み」というイメージが残っているように感じます。

 鉄舟は酒代欲しさだったのか書を乞われれば気軽に書くという気さくなところがあって、ここ相良にはたくさんの「鉄舟の書」が見受けられます。

鉄舟はいとも簡単に僅かな謝礼で書を提供して歩いているということと、その鉄舟の書の模写も後世夥しい量が出回っていますので真贋付けるのも面倒なことでありますし、譬えホンモノとしてもそれほどの価値は付かないと思います。

骨董好きの家であればどこにもあるというのが鉄舟の書でもありますね。

当山にも軸が残っていますが真贋ハッキリしないということと鉄舟風の大胆な(いわば殴り書きの様な)書風でそう珍しいものではありませんのでこちらでの表示は遠慮させていただきます。

 

 さて、画像は布施新助家に残る鉄舟の軸。

鉄舟が布施家にて逗留した際に書したものかと思われます。

決して殴り書きでは無く、「禅」の道を歩む身ながらも布施家の信心深い真宗門徒の姿を見て「南無阿弥陀仏」の六字の名号を記したという心配りがうかがえます。

そしてそこには宗祖親鸞聖人九歳の時の有名な歌が。

 天台座主慈円の執刀により得度する際、「今日は遅くなったので明日にしようか・・・?」という慈円の投げかけに対する歌といわれています。

 

「明日ありと思ふ心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

 

と骸骨の絵。

私はこの軸を「一休骸骨」と並べて「鉄舟骸骨」と呼ばせていただいていますが、鉄舟の真物の中では特に珍しいものの部類だと思います。

 ただし歌の後半部分、「夜半に嵐の吹かぬものかは」が鉄舟の方では「夜に嵐の吹かぬものかな」となっています。

鉄舟さん、きっとうろ覚えで記してしまったのでしょうね。

しっかり役職まで記されています。画像からも「イイ男」振りが一目です。

私は幕末志士と云われる者多々ある中、一番好感が持てる男です。勿論今井信郎もイイ男でした。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 20 12月 2013 08:58)

    幕末は面白いですね。鉄舟もいいですが
    龍馬もいいですね。
    いやいや その頃の人物は皆さん世を憂えて
    情熱に燃えていたのでしょう。
    どなたもいい生き様です。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 20 12月 2013 23:39)

    ありがとうございます。
    幕末という武士の時代の終焉は
    局所的な「人斬り」の侍が政治家になって国の中枢になり
    結局は大きな戦争(人斬り)に国を引きずり込んだ歴史とも思えます。ついつい生き様を見てカッコイイと思いがちです。
    今は「刀」に頼らない政治を望みます。
    しかし私は家の中で刀を振り回しています。変ですね。