近江門徒の興隆 相良布施家

大澤寺開祖今井権七(郎)と大坂本願寺で意気投合したのか、近江同郷の誼みで当初からの付き合いだったのか、権七に同行して当地に土着した五家―須々木、大沢の増田・菅山の澤(沢)田・相良の野村・鬼女の河(川)原﨑・吉田の赤松―以外に以降、江戸期になってからも近江から当地に来られたという家は多数あって、さながらこの地に「近江商人」の街を形成させてきたと言っても過言では無いかも知れません。

 旧榛原町の御門徒は明照寺さんの雑賀衆、堺門徒衆、三河門徒の流れで当山とはその出自が明らかに違っているようです。

時代がある程度経ているにも関わらず、同郷の者たちが一箇所に集中することは不思議な事ではありませんね。

 「通信」に関して現在とは相当な不便を想像できる当時にあっても故郷を離れた縁者との交流と情報は案外密にあって、遠州に一足早く向かった縁者に次いで「一旗あげてみよう」という人たちがこの地に下ったのでしょう。

 

 現在は相良や波津街区の平坦地は人口密集地ではありますが、家康の鷹狩場の詰所・屋形が作られた当時は相良は相良川(現萩間川)扇状地の湿地帯で海岸線もずっと内陸に迫った場所。

人家もまばらでした。

そこに家康の指示があって大沢の地にあった当山が現在の相良の本通りに移転してから、次々と近江系の人たちが移住してきたという歴史があります。

安政大地震の萩間川隆起によって廻船の乗り入れが出来なくなってから船荷を扱って財を築いた廻船業の小田家、羽田家は大打撃を受けてその勢いの火は続くことはありませんでした(羽田家は近江系ではなく甲州からの流れか?)。 

 

  明治になってから大いに相良の地で名を為したのは布施家です。

布施家はやはり出身は近江、相良布施家の分家ではありましたが布施新助という人が出て相良油田の開発を手掛けて財を為しました。

「布施石油」という会社を興したのは明治十年(1877)のことです。

当家は相良菅山の油井から汲みあげた油を萩間川河口に設けた製油所にて精製、船積みして各地に輸送したと思われます。

萩間川河口でしたら潮の入っている時間でしたらある程度喫水の深い船でも入れたと思います。

御存知のように相良油田の繁忙は続かず、産油量の枯渇と並行して布施家も衰微していったのでしょう。

 

①は布施新助②は「布施石油鉱業事務所」の看板③は相良油田産出量推移

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 12 12月 2013 08:53)

    栄枯盛衰 そんなもんでしょう。
    変わるから人生面白い。
    悪くてもいつかはよくなるでしょう。
    まるで小原庄助さんのように楽しく遊んで
    暮らせたらどんなにいいか。
    ノー天気がいいのか、あくせく上を見て
    努力に努力を重ねてがんばるのがいいのか。
    で 結果がついてくればいいけど
    付いてくるかどうかはわからない。
    それならば 気楽の方がいいか。
    いつまで生かされるのか。
    親鸞のように宗教に対する趣味を持てば
    幸せなことかも。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 12 12月 2013 19:55)

    ありがとうございます。
    「歴史」というものは、いわば「他者の人生の浮沈」を俯瞰
    するものとも解釈できますね。
    若い人たちはその「浮沈」を己の人生に準えて生き、それらの失敗の連続を自らの教訓として採用しつつ、その今歩んでいる人生そのものも大きな流れの中にあって時として浮かび、また沈んでいくもだということをその根底に抱くことが肝要であると思います。
    最近は法名に「樂」の字の銘々を希望する方が多いように感じます。「今年の一字」も2番目に多かったようです。
    この字の所望は時勢が逆―「苦」―であるということの裏腹であるのでしょうが、いかにその人の人生に「苦しいこと」が多いかということを示唆しているようです。
    苦を楽に感じるような人生の差配、テクニックの有無が大きな差となっていくでしょう。