今でも かなりわかりにくい 初倉 今井信郎屋敷跡

「坂本竜馬を斬った男」については諸説入り混じっていて確定的な立証がされていませんが、今のところまず「そうだろう」と思われているのが今井信郎です。

今井幸彦氏による『坂本龍馬を斬った男』を読めば殆どそのスジに落ち着くというものですがそれを扱ったドラマなどでも「今井」の採用が主のようです。

 竜馬は現代人にとって人気がありますので結果的にその人を殺した人であると単純に言ってしまえば「酷い人」と思われがちですね。

しかし、今井の行為は警察行為でした(幕府遊撃隊頭取―京都見廻組)。「勝てば官軍」という言葉がありますが、幕府を倒した薩長が政権を奪取したことによって逆に「犯罪者」とされただけで、立場が変わればまったく逆です。

 

 私も今となっては、竜馬が生き続けて人生を全うしていたとしたら、明治期の薩長色はずっと減衰し、ひょっとするとこの100年の歴史というものがまったく変わっていたかも知れないと思っています。その死に関しては残念ですね。

 結果的に竜馬の死によって利権を得た人々は多種に及びます。たとえば竜馬が政権に鎮座していたとすればその後の伊藤博文の出現などは相当怪しいところになるのでしょうか。

 

 収監された今井信郎はそもそも西郷隆盛の口添えで恩赦が為されて釈放されたと言われています。

しかしこの件はその後の薩長主導の政権の有様の件、西南戦争で西郷を葬った谷干城が竜馬を斬った男について今井説を何故か執拗に否定し続けていた点等、裏に何かがあったことは窺われます。

 

 さて、当サイトでも記しているように、今井信郎は当地区での知る人ぞ知るヒーローでもあります。

今は島田市の初倉という地に土着した今井ですが、昔の初倉は「榛原郡」で、ひと昔前の「相良」とは同郡部です。

地理的にも島田市街から見れば大井川を渡った地で、相良人の感覚としては「川崎」(榛原)の先の「吉田」辺りと同等のイメージと距離感であり当地区と婚姻関係等が多かった痕跡は見受けられます。

今井自身、愛娘の相良嫁入りもあって相良との交流は浅からざるものがありました。

 

 その初倉村の村長を務め、当地区の榛原高校創建に尽力している人ですね。当然地元の信頼も確固たるものを築いたいったことでしょう。

 

 そのような中、今井は常に竜馬殺しに反発する暗殺者からの目を気にしていたといいます。

今井の屋敷跡は大井川初倉側の段丘が作った谷に小さい川が流れていますがその一番奥まった場所にあります。

 

 あまりにも街道から外れて奥まった場所であるために、現在も人家は建っていません。

その屋敷に辿り着こうと向かおうとすれば、必ずその来訪を家人に悟られることになりましょう。

 

 このように他所から来た者にとってわかり難い場所に屋敷を構え、尚も防御性をも考えていることが確認できることからも、彼の心中を察する事が出来るのです。

 

 さて、折角あのような屋敷の痕跡があって、記念碑等も建てられている場所(夏はさすがに草ぼうぼうですが)が残っているので、わかりやすいご案内をいたしましょう。何となく行ってスグに出会える場所ではありませんので。

 

 まずは地図の確認です。

パッと見ると東名吉田I.C.から島田へ抜ける県道34号が近くに通っていますがこの道は段丘のトップを走る道で今井屋敷跡はその下、谷の奥になります

画像でもお判りの通りまるで城塞の如くの地形になっていますね。〇印がタンク、☆が屋敷跡になります。

 

 その道路脇にあるタンク(初倉浄水場管理本部)辺りから直線で車で行くことはできませんし、車を乗り捨てて茶畑の谷を降りることもできましょうが、駐車場所がありませんね。よってタンクから下に徒歩で降りることはパス。

 

 途中畦道状に道は細くなって「自己責任」ですが車でも屋敷手前の広場まで行くことができます。吉田I.C.方面へ丘を降り、「初倉消防署東」交差点付近から回り込み、交差点A(画像③)を確認してください。新幹線のガードを潜って藪を上って左方向へまた下ります。ゆっくり走って見落とさなければポイントBの案内板(画像④⑤)がありますので右へ。

もし上へ上がる道に入ったとしたら間違いです。

ひたすら川沿いの谷の奥を目指します。⑬は屋敷背後の竹藪と山側に設けられた土塁風の段差。

⑥が屋敷方面を見た図。⑮が屋敷から谷の入り口と県道方面の段丘を見た図。

地形を熟知している人でなくては今井の屋敷は目に触れられることも無かったでしょう。