晴れましたが冷たい風少々。
境内雑務の後は奥方の買い物のつきあい。運転手です。
これから強めの雨予報もあって大晦日用の準備を「本日中にやっつける」といいます。
しかし一日はあっという間に終わります。
冬至がすぎたからには「さぁ、これから」というところですが昼は短く夜の時間は長い。
そしてここのところの「雨嬉しや」と歓んでいる私ですが、自分勝手な願望としては大晦日とその前日は好天を望みます。
一年で比較的多くの皆さんが境内に集まることが期待できる恒例の除夕鐘が大晦日に撞かれます。
よってその準備を皆さんで行いますので12/30 12/31はうまいこと穏やかな一日になっていただきたいですね。
そう都合よくいくものでしょうか、甚だ「ふざけた野郎」とは思いますが。
もっと欲を言えば暖かな日に巡り合いたい。
その後の事は・・・おまかせしま~す。
詳細①画像掲示板の通りです。
奥方は境内で「何かヤル」と気合をいれていますが・・・。
どちらさまもお気軽にどうぞ。小さい子も打てるよう喚鐘を降ろして設置しますのでそれも体験できます。
滅多に打つ機会はありませんからね。
一昔前は街区の物見に吊るされて「いざ火事」という時に打ち鳴らされたものです。
扨、高天神城から南へ進めば大坂という地に。
ショッピングセンター等が並ぶ賑やかな場所になります。
遠州人として「大坂」といえばここのことになりますね。
またその先の横須賀城でお馴染みの「横須賀」がありますので、それら地名を地元以外の方に説明する時は一応は一言添えなくてはなりません。
その大坂に「報地」という字があります。
そして以前拙ブログにて大石外記氏久について記したことがありました。
外記氏久に至る三代まで今川氏の配下にありましたが、その期間は三浦一統にかなり邪険にされていたよう。
そこを家康に手を伸ばされ、この大坂「報地」を領するようになったといいます。今川→徳川に主君が代わり知行をまかされその意に報いたいという気持ちがありそれが地名になったのかも。
大石外記氏久は天正二年六月十八日、内藤昌豊率いる甲州勢が高天神追手門に殺到した際、その地で致命傷を受けて死しています。
その子新次郎久末は天正二年の開城の際、勝頼から印章を渡されたといいますが、大須賀康高に従って馬伏塚に退去。
その後天正十年に久松は隠居し宗兵衛と名乗り大坂村を拓いて居住、その長男彦左衛門は大須賀家に仕え、のちに徳川頼宣に従って紀州へ赴きます。
久松の長女に今川の浪士喜平治を迎えて大坂村大石家を継がせ
長女に本間清光を配して池新田の本間、丸尾両家を・・・
というのがいつもの藤田鶴南氏の記述から。
渥美・大石・本間・丸尾・・・どちらも縁が深いということで。
大坂の報地にその大石家の屋敷が今も(場所はこちら)あります。
相良から浜岡池新田を通過して横須賀、袋井方向に向かう道すがら、その屋敷の前を通過することになります。
や犬待坂や銭瓶堂、三井山砦(または こちらも)の東になります。
背後の丘に興味が行きますがあくまでも私有地。
突撃訪問を試みようとしましたがあの時は植木屋さんが入ってゴタゴタしている様子でした。いつもその踏ん切りがつかないというところ。




コメントをお書きください