三界に家無し 勝過三界道 三井山砦五輪塔と神宮寺砦

土曜の夜のテレビ小僧はNHK「植木等・・・」から「都市直下地震」。座りっぱなしの不健康を指摘されていますので30分おきに立って屈伸運動。

 

「植木等・・・」に関しては予告を見てちょっと「無茶だろう」という怪訝を感じましたが、もしかすると当流の宗旨について触れられる場面もあるかと思い、チャンネルをそのままにしていました。お方様がチャンネルいじりをし始めようとしたためそれを制止して。

 

すると冒頭から父親植木徹誠役の伊東四朗が出てきて「わかっちゃいるけどやめられない」は「親鸞聖人の考え方そのもの」「寺を継がない罪滅ぼしに(スーダラ節を)歌って来い」との台詞があり、お方さまへドヤ顔をしつつ嬉しくなって1回目はすべて視聴しました。この件は有名なエピソードでした。今後もそこのところに注視して(坊さんを継がずに芸人の身となった)見ていきたいと思います。

 

地震の件、大阪の「上町断層帯」の高層ビルをシミュレーションした「長周期パルス」の脅威を「小劇」にしていましたが、アレでは「あべのハルカスなんて恐ろしくて上れない」と思うばかりです。

関東ローム層と名古屋の「地下」については「わからない」だけでたまたま大阪を例にしたようですが・・・。

まぁ高層マンションにこれから住むなら

①近くの活断層を調べよ

②直下の地盤はどうなっているか調べよ 

既に住まわれている方は

③準備せよ 

④リスク存在の事実を無視して対策を取らないことが「想定外」を生む

 

さて、他にも「わかっているようでわからない」のが「三界」の語。

三界とは「欲界、色界、無色界」という「人間の性」により抜け出せそうもない「生まれ変わりのローテーション」の如き事を表す語(流転三界中・・・)ですが、まぁその「3つ」についてどうこうと考える事はありませんね。

これは一言で言って私の好きな「すててこその身」の推奨です。そもそも捨て切れるものではないからです。

そのローテーションから脱する事を(一昔前・・・)あの人口に膾炙した語の「解脱」ですね。

よって私はそのようなデキもしない大層な仏教用語を軽々しく口にしようとは思いません。

 

わかっているようで実際にはわかっていないのがそこのところで、諸所の事、生きている限り捨てることが可能な事は少ないものです。

ここで捨てきれてこそ「わかった」と言えるのでしょうが・・・。

 

昨日の法話の中であげたのが当流で扱う「勝」の字。

まず「勝」の字は相手があるものではなく自分がどうであるかということ。どちらかと記せば「勝負」のイメージではなく「勝れた」の意でしょう。

極端な言い方で「地獄より極楽に行こう」、極楽の方があらゆる点で「勝(まさ)っている」という意がわかりやすいかとその例を提示させていただきました。

 

「勝る」のこだわりは「執着しない、すてる」とはダブルスタンダードとなりますが、「執着しない、すてること」にこだわりつつも「お念仏に特に執着」して「極楽(こちらにも執着)に行こう」のキャンペーンが当流であってその執着こそが他に勝らなくてはなりませんからね。「すててこそ」の旗を振っている身としてもよくわからなくなりますが。

 

一応「勝」の字を見ていくと善導さんの至心懺悔の「勝縁勝境 悉現前」であり表記「願生偈」の一節「勝過三界道」が。

私は「願生偈」については少々長めですので墓前では拝読いたしませんが(主に三誓偈です)、その中間の長さの嘆仏偈と同様、本堂内あげ経等で拝読しています(いずれもいわゆる「お経」ではありません)。

尚、表記のもう一つ、「三界に家無し」については大谷大学のサイトを参照。

 

画像は三井山砦の五輪塔たち。

推測ですが、こちら三峯山両軍攻防の際に死んでいったものたちを弔うために縁者がそれぞれの地に建てた石塔を後世になってこちらにまとめたものでしょう。

このタイプの一石五輪塔は室町期に流行ったものですから。

画像は訪問時期に2年程のインターバルがありますので微妙に位置が変わって見えます。

自分で動いていたら面白いのですが・・・。

 

この砦の今一つの着目点は堀の如くの溜池を設けたこと。

最後の画像はその中で一番大きい高天神城側にある神宮寺砦のため池。

下の画像が神宮寺(場所はこちら)本堂奥の丘とその内部。

ただの竹藪と化しています。詳細はこちらへ。