細川義季・義宗 俊氏・公頼 内藤清長の墓 隣松寺

前回の台風通過と前線通過のダブルパンチで庫裏の二カ所の雨漏りが再発したのでしたが、その後の「屋根やの夫婦」の対応がハマったのか今節2度目の激しい雨には今のところ雨漏りは止まっているようです。

ドカ雨が降るたび、深夜に口を開けて天井との睨めっこは開放されそうです。

前回は風の強さがありましたので何とも判断つきかねますがとりあえずの様子見。

よってこれといった瓦にシリコンを詰め込む作戦は中止です。

 

そして一昨日の法事は一滴も雨はありませんでしたが昨日も朝の土砂降りは不思議とあがり、懸案だった土日の法要は無事に修めることができて上々の出来。有難いことでした。

 

扨、昨日記した家康の矢作川渡船所から真西に2㎞もないくらいの場所にあるのが隣松寺(またはこちら こちら)でした。

そしてその墓域の松平忠吉の墓の直近手前に並ぶ五基を。

忠吉の墓の手前にありますから、先ず最初にお目にかかれるのが内藤清長の墓。

清康・廣忠時代から松平方の戦働きに頭角を現した内藤家ですが

彼は三河一向一揆で一揆方についたため一線を退いています。

近くの織田勢との橋頭保上野城に在城していたためこの地にも墓が造られ弔われたことと思います。

 

またそのお隣には細川発祥の人たち。

本来ならばその「細川家の人々」について松平忠吉のあとに記せばいいものをここまで引きづっていたのは「奥の墓道」氏の談から。

「何故にこちらに細川なのか」というイメージが強いという指摘がありました。

普通の感覚でいえば畿内にいる室町幕府後期に出て戦国大名化して後世にも名を知らしめた(総理大臣にまでなった)「細川」ですからね。

よってまずは此の地の対岸、細川や仁木の地に彼らの系が在地したところから記したのでした。

 

彼らの墓がこちら隣松寺にあるというその経緯は不詳ですが(当初領地の川向こうである)後の縁者が供養塔として建碑したのかも・・・などと思った次第。

細川氏の祖義季と弟の義宗 二代俊氏・三代公頼です。

義季の兄は仁木氏でしたがその弟の義宗は戸賀崎を名乗って戸

賀崎(戸崎)氏の祖となります。ちなみに義宗の子から荒川氏とその三者の父、広沢(足利)義実の系流は派生して室町幕府の要職に就いていきました。元はといえば足利義氏が三河守護就任をもっての一族の繁盛でした。

 

まぁ鎌倉期の戦乱(承久の乱)の結果から巡り巡って近代の国政にまで名乗りをあげるなどやはりご先祖の威光とはスゴイものがありますね。

尚、内藤の墓は元は宝篋印塔ですが、新し目(素材が明らかに他の部位と違う)の五輪塔部材(火輪)後補でしょうね。

細川家の墓石たちも失礼ながら「パズル合わせを間違った・・?」の感が。

墓域について今は非常にキレイに整備されていますがやはり未管理で放置されていた時代が長くあったことが想像できます。

明治初頭の廃仏毀釈もしかり。