冒険-苦痛・忍耐-は心を変えるグリーンブック 隣松寺

私の持論、前線降水帯「国道一号線通過理論」の通り、県内の昼間は御前崎・牧之原の北側に猛烈な降雨の様。

河川の「氾濫間近」のニュースが東海各地で流れていました。

ところが23時20分になって当地にも「避難指示」が。

しかし誰がこの「雨の中に・・・」の溜息。

この付近に限ってなのでしょうが「家の中が一番」に安心だと思うところですが。

夜が明けて朝が来ればいろいろ詳細報じられることでしょう。

 

息子が親の顔に泥を塗るの件、各拝見させていただいていますが、過保護に育てられたお坊っちゃまたちは往々にして冒険というものが足りないような。

要は世間知らずと言うことなのでしょうが、結構子も子なら親も親という感じもしないでもなし。

私の父母と私、私と息子のことはちょっとばかし棚の上に置かせていただいて好き勝手を記させていただけば、やはり「親の心子知らず」は致し方ないところ。

そもそも人間は「おバカ」な生き物なのですから。一言で「伝え続きの順送り」。

 

子は成長によってそれを知っていくものなのですが、発達が未熟だとそれがスンナリ頭の中に入ってこず、やりたい放題の放任生活があったこともあいまって結果、親の顔に泥を塗るような短絡や時に手を掛けてしまうことがあるのでしょうね。

やはり原因は親か・・・泥を塗られたとしても「自業自得」かも。

 

私の持論は「自分を信じるな」ですが、それは「息子を信じるな」でもあるわけで、つまるところ人間のそもそもの性質「さるべき業縁 (のもよおせばいかなる振る舞いもすべし~歎異抄)」

の通りです。

おバカな子はそれでも「可愛い」というのはわかりますが、ソーリになったから秘書官に抜擢したり「猟銃が欲しい」とせっつかれて買い与えるなどは愚の骨頂かもね。

 

後者の方は親の弁「戦争映画ばかり観させたせいで」の如くのこと聞きましたがそれは違うとおもいますが・・・。

私など西部劇と戦争映画、アクション映画のハリウッド製ばかり観ていましたが、猟銃をぶっ放そうなど考えた事はありません。

 

そのストーリーはまず悪い者が善い者に成敗されるという勧善懲悪風ですから「悪いことをすればこうなる」を映画から教えられるワケです。戦争映画でしたらその悲惨さから非戦社会の願望や人の心の複雑さというものを読み解いていくわけですね。

息子も幼い頃からその手の洋画ばかり視聴していましたが、これはやはり私の父母譲り。

奥方に対して、彼が「猟銃を買ってくれ」とせがまれたらどうした?と試しに聞いたところ「バカヤロー、ふざけるな!!!」で一蹴すると。

それが普通の親の心では?

 

扨、昨日NHKで視聴した「グリーンブック」という映画の中でそのヒントとなる言葉を耳にしました。

たしか、「冒険は心を変える」のような語だったかと。

間違っていたらごめんなさい。

その「冒険」とは、あの歌舞伎役者のお頭の中風ファンタジーチックな絵空事(死んで生き返る―リセットする)のようなことではありません。

 

 

映画は1960年代の人種差別真っ盛りの時代の実話からです。

ジャマイカ系の有名ミュージシャンがイタリア系のボディカード兼運転手を雇ってアメリカ南部での2か月あまりのコンサートツアーに向かうというストーリー。

当時のアメリカ南部は黒人への差別が半端なものではなく各地で地元の「洗礼」を受けることになります。

「肌が黒い」という理由だけで脅され、ブン殴られ、レストランでの食事は拒絶され、トイレも白人との共用は許されないという世界に自らを投じたその理由が表記「冒険は心を変える」だったということでしょうか。

 

北部でのコンサートは名声もあって南部のツアーより「三倍稼げる」はずなのに彼はその「冒険」を求めたということですね。

辛く腹立たしく理不尽だらけを体感することが彼の冒険であり、その冒険を遂げた時、何かが変わる・・・といったメッセージだったかと。

ラクを求めて逃げてばかりいたら本当の私がわからないということかも。

 

 

画像は昨日の隣松寺本堂と三尊形式の阿弥陀さん。

須弥壇はごく賑やか。