海月左五介なる方の塚 土呂の竹藪 土呂八幡宮

お日さまさえ顔を出してくれれば安泰の季節になりました。

ただし本堂内はうすら寒く、「もしかしてストーブの出番?」と頭をよぎりましたが、世話人会の進行とともにその感覚は失せていました。

まずは正信偈の拝読からでした。ちょうど昨日は各「3.11の法要」が行われていましたね。

 

会の地区世話人の参集者は30人弱、少なくない人数もありました

が、議題の内容が「春の法要」であることは当然の事、その他の提案事項として前回の発展形ということもあってホットな話題となりました。

その内容とは、前回はお寺の本堂で行う葬儀ができないか・・・

から始まり「こうこうあればできる」までの今一つ不確定なものでしたが、今回檀家さんの中から「私が仕切る」と名乗りを挙げた方があり、その説明をしていただきました。

葬儀屋さんの形態ではなく家族葬程度のそれを「仕切る」「差配する」そして「運営する」というものです。

要は今流行りの「コンシェルジュ」としての起業となります。

 

最近耳にお馴染みとなったその語(フランス語)の語源と言えば、ウィキによれば「中世の時代から、コンシェルジュは巡礼者が訪れる教会に常に在中し、ホスピタリティー(思いやりと暖かさ)をもって巡礼者を迎え、旅にまつわるトラブルを解決し、次の目的に正しく導く手伝いをしていた」なる「歴史ある言葉」とあります。「寺に常駐して『旅』(現世から浄土へ)を導く」お手伝いとしてはまさにズバリ。

 

お寺としてのスタンスとしては支援アドバイスはしてもその経営には関与せず、リベートもいただかないことを伝えました。

その有無に関しては必然的に利用者に跳ね返ってくることですし起業スタートアップの足を引っ張ります。

 

そしてお寺のメリットとしては本堂を使用していただけるということ。

また起業者側のメリットは何と言ってもハコ(会場施設)が不要ということです。葬儀会場を仕立てるにはまとまった額の投資が必要になりますからね。

そして何より檀家さんからはコストの低下に繋がります。

そこで私は近江出自の方ならば誰でもが知っている「三方よし」と締めさせていただきました。

尚、「その時」の選択は各家それぞれ自由ということは言うまでもありません。

 

扨、先日は土呂八幡宮について記しました。

昨日記した土呂本宗寺が近くにあってともに焼失したあと石川数正の手で再建されたという神社です。

一向一揆終焉後の新土呂城址(蓮如堂のあったあたりを旧土呂城とイメージして)ということもあって私は付近をさらっとですが散策していました。城郭としての遺構を確認のためです。

 

先日も記しましたようにこの八幡宮には阿弥陀如来が伝承する不思議の件を記しましたが、この境内の裏、竹藪の中に一基の宝篋印塔が建っています。

一般的に神社境内にそのような仏塔があることは稀なこと。

余程古くからある神社で、神仏習合の件考えればあり得なくともありませんが、廃仏毀釈時代の経緯もありますが神社にある墓域はまずもって整理の対象になったはずです。

今でいえば神道は「穢れ・・・死」を嫌いますからね。

 

鎌倉仏教以前となれば寺であっても死者は境内(仏域)に入れるなど習慣はありませんでした。

高貴な僧侶(平安期の僧は貴族的)の仏教とは学問研鑽であって民の葬送などとは縁遠いものがありました。

 

そういうところからその八幡宮の社殿裏藪といえども石塔が存在するという事実はその出遭いははしゃぎたくなる如くの嬉しさもあり驚きでもありました。

薄暗い藪の中で浮かぶそのシルエットに思わず声をあげてしまったほどです。

 

八幡宮裏、よく見れば土饅頭の如き盛土のうねうねは竹の地下茎が押し上げたのかそもそも土塁があったのか想像のみですが、この石塔のある位置の向こうは小さな谷になっていますので曲輪と堀との境界といった場所。

昭和二年に建てられた石柱があり、神社側の面に「海月左五介塚」の銘があります。

その石柱を建碑された方の思いが伝わってきますがその石塔そのものの持ち主「海月左五介」さん・・・「あなたはたれ?」の思 

いが残ります。

 

私は勝手ながらあの一向一揆の騒乱にて戦没した、名もなき人たちの中、その昭和初頭まで伝承されていたのでしょう、戦没者を弔うため、代表して海月左五介」の塚を建てれたのではないかと想像したのでした。

墓塔はどちらからかどなたかの手によって「転居」してきた可能性もあります。

笠の隅飾りの具合から室町期というところは固いところでしょうが上部は五輪塔から借用してきたであろうパーツ取り。

底部も他からの拝借についてあるかも知れません。

 

竹藪の中にあるとこういった石塔は竹の力によって経年維持されることは難しいものですが、こうして立ち続けているということはどなたかの手が定期的に入っていることも感じます。

竹は地上の状況など考えずに問答無用で突きあげてくるものですから。

石塔周囲には何故か竹が生えていません。

知る人ぞ知る海月さん。南無阿弥陀仏。

もしかしてもっとたくさんの皆さまも・・・

 

尚、今のところ私に喰いついたマダニによる異常症状は出てきていません。

そもそもオカシイのだから「判別不能」とも。

このような人も立ち寄らないような藪をうろつけばそうなるだろ・・・などと奥方が苦笑していました。

齢を取ったせいかやはり私は反論「ホントの竹藪はこんなものではないぞ」と。

竹の林立で先に進めないことなどザラです。

人が歩ける竹藪というものは管理されているからです。

 

以前、墓の近くから出てきたタケノコ(平田寺でタケノコ掘り)を家族で食しましたがその際、奥方だけ酷い蕁麻疹と体調不良になりました。それ以来タケノコは口にしなくなりましたが、「竹」というと奥方は憎まれ口を言い出しますのでそれをネタにしばしば口論になります。

また墓近くから取ってきた自然薯(これは小堤山のトンネル近くの廃寺脇)は奥方は平気で食べていますので因縁話関係なし。

そろそろ檀家さんから「タケノコ!!」の声が聞こえてくる・・・季節は進む。