土呂城二郭土呂八幡宮 成瀬藤蔵が舞い戻る

営業の直電を受けた際は「出るんじゃなかった」の後悔が付きまといます。

本堂や境内、時にトイレ中に電話の呼び出し音に反応しダッシュして相手先電話番号も確認せずに出てしまった時が特にそう。

相手先番号が「0120」と「0800」については100%「超無視」にはしていますが、中には普通番号(市外局番が主)もあったり慌てて出て失敗することがあります。

時に耳元でテープ音声が回っていることがあったり、その際は当然にガチャ切りしますね。

「聞く耳を持つ」ことは大切ですが、電話の相手の「一方的」な論には「聞いちゃあいられない」というのがこちらの本音。

 

また営業のダイレクト電話は最近どちも疑わしく思っていますので「相手にしない」という方も増えていると思いますが、それは何より最近、世間流行りものとなった、ぼったくり強盗のアポ電の可能性があるからです。

 

先日来、2度にわたって遠隔地(関西方面)からの電話が拙寺にありました。二件は違う場所からの電話でしたが、こちらの名前をそもそも知らない風でイキナリその主旨を話しだします。

私もその時点で「踏んじゃった~」の苦虫状態になるわけですね。

その内容が2回とも同じようなことで「不用品・骨董品・貴金属の類を買い取りします」というものです。

どちら様にとっても面倒くさそうな話でしょうね。

「あります」などと正直に言えば「ではご住所を確認させていただきます」という流れになってその会社の兵隊さんたちが押しかけてくるというパターンでしょうね。

 

一時「押し買い」なる貴金属専の輩が老年者独り暮らしの家をターゲットにやって来て無理やり安値でもって貴金属を買い逃げするという件流行っていました。

貴金属相場の高騰と年配者の無理解に乗じた悪行です。

 

その手の電話ではるばる来られたからには成果が無ければお帰りにならないでしょうから、私の如く気の小さい者としてはハナから電話の段階でお断りするのが一番となります。

 

私は二度ともその言葉を吐いて断りましたが、とても効果的。

先方は「ああそうですか・・・」と言って電話を切ってくれます。

それが「うちも骨董屋、貴金属の買い取り屋だよ」です。

嘘も方便、阿弥陀様はゆるしてくれるはず。「OKだよ~」

まぁ、ガチャ切してもいいレベルですが。

 

扨、昨日記した御堂山

西に広がる平地に張り出した小さな丘陵が蓮如さんが滞留し地区に浄土真宗の教え広げた中心地。

当初は城塞化の意図ではなく布教が専らでしたから街道筋に面した場所に住したのでしょうが、後に本宗寺という当地の拠点寺院が東側丘陵域に創建されたことからより大きな寺内町が形成されたということでしょうね。

 

昨日の一番最後の画像は蓮如堂付近から東側の丘の図(岡崎信用金庫の背後)ですがその一帯の中心は現在「土呂八幡宮」(南面)の境内域となっています。

一向一揆の際に本宗寺とともに灰燼に帰し、石川数正の手で再建されて城塞としての整備も同時に行われたとのこと。

いわゆる土呂城には古い主郭(蓮如堂)と八幡宮周辺の新土呂城があったということでしょうか。

 

掲示板の如く、神社に阿弥陀如来坐像が安置されているということで探索しましたが、お目にかかれる機縁はありませんでした。

神仏混合から廃仏毀釈の時代、よく生き残ったものだと感心したのですが。

 

最期の画像には私の思い浮かぶ真宗系ご門徒一党の名が。

そしてこの辺りにも鈴木の名が目につきました(蓮如堂の南側に鈴木さん、そしてスズキ自販と)。

 

なにより成瀬正義の寛政譜の件、永禄五年に同僚を斬って家族を

連れて遠州に逃れていますが、この一向一揆の家康窮地の頃合いのドサクサに三河に舞い戻って家康側に付いて戦ったというのがこちらの土呂でした。

正義にとっては絶妙なチャンスだったのでしょうが妻の勒さん(妙意)からすれば複雑だったでしょうね。

一向宗ながら家康側に付く者も見受けられますしいわゆる世渡り上手の類。土呂本宗寺に火をかけた口かも。

 

そして.一体誰を切り殺して逃げたのか分かりませんが、「逃げる」ということはうしろめたさと責任が生じることであることは間違いないでしょう。

 

藤蔵は家康からはうまいこと引き立てられたことも間違いないところですが、やはり家臣団からは鼻つまみ者だったかも知れません。

当家の血なのか私もその類ですからよくわかります。

 

また、そうなるともし、という疑問も沸き起こります。

成瀬藤蔵の四男傳助が当家の三代目(今井権七の娘婿)に入ったのは三方ヶ原合戦で藤蔵が亡くなって以降のこと。

永禄の一向一揆の頃に初代今井権七がもしここにいたとすれば一揆方として参加、家康方の成瀬藤蔵が分かれて戦ったということになります。まぁ安土から遠州に辿り着いた頃でもありますが。

そしてなぜか権七に関する石山本願寺での件はあっても三河一向一揆に参加していたことを記す文書の記述がないのですが、これは藤蔵の死によって家康が寺を強く支援してくれたことから直前の不要な歴史事実を消したということも考えられます・・・

 

寛政重修諸家譜より

 

成瀬正義  藤蔵  母は某氏

東照宮につかへたてまつり、六名郷において采地二百五十貫文をたまひ、御使番をつとめ、御旗奉行を兼ねる。鳥居四郎左衛門忠廣とともに近侍し専ら軍事にあづかる。

 

永禄五年同僚と争論しこれを討って遠江国に走る。

 

六年本願寺の門徒蜂起せし時、正義三河国に馳せ帰り、ただちに土呂寺にいり、妻子を携えて岡崎にいたりしかば、其ふたごころなきを感じたまひ、御勘気をゆるされ、これより数度の戦場に臨て御麾下にありて軍功あるにより、七年三河国岡郷において五十貫文の地を加へらる・・・』