岡崎土呂の歴史遺構消滅 蓮如堂 Google画像から

人の「亡くなる」という報せは報道機関の配信にて日々耳目にしますが、当然ながらモニターの中の件は親身にはなりませんね。そもそも「死」などは生まれた時から人が背負っていかなければならないテーマですから、名の通っている御仁やお金持ちの方々ならばその辺りの件当然に合点しているはずですし突き放す気はありませんが私との関りはまったくありませんからね。それが正直なところです。

しかしながら他人のことは見えても自身のことはまるで見えていないというのが人間ですから、お偉いさんとなれば自身の死について本当に理解して死するのか甚だ疑問ではあります。

 

中にはひょっとして自分が死んだことすらわからないような亡くなり方をする人もいるようですが・・・。

それだけ死について(そのタイミング・・・)何から何まで「わからない」ところがたくさんあるのですが、とかくそれを考えても始まりません。

まぁ真宗門徒はただただ(阿弥陀さんに)「まかせる」というのがそのスタンスですね。「まかせる」ほかその術(すべ)を持たないというのも人間ですが。

それを何かの術(じゅつ)を使うが如くその解消を試みるインチキ宗教の数々を色々見さつけられてきましたがそれこそが人の本来のあるべき清浄思考からはみ出し迷いの闇に招き陥れ本来の命の在り方を失わせるものと解しています。

 

「親身になれない」とは言いましたが、近しいご門徒さんの場合は異なった感状が湧きます。

昨日は「嫁に出した娘が亡くなった」という、やはり拙寺御門徒さんの家から嫁に出た方が実家の墓前へその報告とお参りに来られました。

私は丁度役所に行く用事があってその出がけでしたがその方は門前で私を遮るようにその件を話しだされましたので一旦車を戻して詳細を伺うことにしました。

 

するとその方の娘さんは今年1月に不調を訴え検査。

その結果子宮がんが判明、既に違う部位に悪性腫瘍が転移して僅かその1カ月の間に亡くなってしまったと。

「滅多にない」と医師は指摘していたそうですが、その早い病の進行には唖然とさせられました。

 

辛くて切ないのはその方には今年小学校に入学する娘さんが一人いて、通夜はお母さんの「髪を掴んで離さなかった」とのこと。母も無念であったでしょうし子供や親族の悲しみはまた如何ばかりか。

 

その夫はその母親も早く亡くしていたということで「悪いことばかりでロクなことがない」とどちらかの宗教関係に赴きたいと吐露したとのこと。

それはそれは大変なことであることは事実。

幼子を自分一人の手で育てていかなくてはなりません。

 

ただし私はその支えを求めようと精神的安心を守るべきものとしてランダムにそれを選択しようとすることは一蹴しました。

「生老病死」の四苦は「人が生まれながらにして背負い歩いて行かなければならない」「誰もが背負っている」課題であって「そのタイミングはまかせるほかはない」と。厳しい言葉とは承知していますが、その件やんわりと伝えました。

そして一緒に墓前(本家の)にて合掌させていただきました。

 

扨、当流では親鸞さんが91歳、蓮如さんが85歳と当時の栄養状態と医療の件から鑑みても相当な御長寿を全うしたことは周知のことです。

それを勝手に「スバラシイ・・・」などと思いつつ私がその85~91までの寿命を戴いたとすれば「坊さんとしての及第点」かな・・・などと思っていたりします。

普段皆さんには「人生とは・・・その年齢の数では計ることができない」とは言っているクセにね。図々しいものです。

どちらにせよ「まかせる」というスタンスは変わりませんが。

 

まかせる、まかせるとは言っていても人間の行いについてまかせてしまうというのは後戻りのできないような残念な状況を招くことは殆どお決まりのこと。

私が最近「無念だな~」と思った事案を一つ。

それこそが私が「守るべきもの」と普段考えていることですからね。近視眼的になってはイケないことは承知していても・・・

 

先日は幸田から岡崎福岡町へなどと山本勘助の墓を記しましたがその福岡町には「御堂山」なる地名があります。

そちらには「蓮如上人土呂御墓地」と「蓮如堂」なる地としてグーグルマップには今も載っていますが現状は削平されて跡形もありません。

1年程度前に更地になっていましたが、今は宅地分譲されて新築家屋が多数建造中です。

ちょっとした山が更地になっていますからかなりの土砂を除去しているのでしょうね。

 

そちらにはいつかは行ってみたいと後回しにしていたらこのザマです。時間の経過に加え人の業というものは恐ろしい。

此の地こそ土呂城の本丸と言われた場所でハカ・テラ・シロ歩きを主眼とする私の放浪からすればこれほどの場所はないといえるほどの地。

何より地区真宗のメッカのような場所ですからね。

 

なんともガッカリな話ですが、かつての様子は今のグーグルマップの画像に残っていました。今後更新されて消えていくことでしょう。

ネット上にも各画像が残っているようですが、内心文句タラタラそのグーグルから切り取った図を拝借して並べてみました。

 

⑨⑩⑪は現状(場所はこちら)。

⑫はその東側の丘陵、こちらにかけて城塞化した砦がありそれを中心に土呂の寺内町があったかと。

街道を跨いでいるところがミソですね。

①の画像の通り、周囲より高い段丘となっています。西側には砂川、そして占部川の低地が広がります。

低湿地帯に守られた城塞だということがわかりますが要は城の範疇からすれば平城の類。

半端な山城よりもずっと攻めずらいというのが低湿地帯にある浮島の如くの平城ですが土呂城は東から西側低地に張り出した段丘上という地形。要害性はあったでしょう。今ではその面影はありませんが。

 

ちなみにその丘のスグ北、街道筋から見て少しばかり低地となる箇所の字名に「下ギロ」なる地があります。

「土呂」の地名は「泥」からというのが通説ですがこの「ギロ」とは「嫌う」からの聞きことばが訛ったものといいます。

泥の中でも特に嫌うべき地ということでしょうか。ドロドロ。

結構にその「ギロ」小字名を周辺目にしますね。

やはり「三河」の字面の通り大小河川に囲まれた地であることは言うまでもありませんから。

 

また、工事現場奥まで入って「もしかしてこちらのスペースは・・・」と思う箇所で、工事作業員に「こちらに御堂が建つ予定ですか?」とストレートに聞いてみると・・・

「御堂が建つ場所はこちらです・・・」とビンゴ⑪。

まぁ最低限蓮如堂の再建場所は確保されているということで、何とか納得させていただきました。

新築された蓮如堂とその景観の図を楽しみとさせていただきましょう。 

どんどん時間はすぎて「後回し」はしばしば手遅れとなります。

 

「蓮如上人土呂御墓地由来

この御堂山は、本願寺の中興蓮如上人が文正元(1466)年正月から応仁二(1468)年の冬頃まで三河地方を御巡化のみぎり遺留された聖跡である。

その後上人は、明応八(1499)年三月に京都山科で御往生せられたが、上人を慕う当地の門徒が、霊骨を分かち与えられんことを懇望し、遂に天文二(1533)年遺骨の一分を譲りうけ、墳墓を立てて上人の御遺教を讃仰したのである。

譲り状は、蓮如上人の実子兼如から当時この御堂山にあった本宗寺第二世、実證僧都(蓮如上人曾孫)に与えられたもので、現在は「福岡町浄専寺」に保存されている。

 

宝物

蓮如上人御形見御尊影・岩ヶ崎弾正念持仏・蓮如上人五十二才座像仏・蛇骨」