松平親氏の父有親の五輪塔 法蔵寺廣忠墓域の奥 

台風が季節の恒例行事のごとく、それも気まぐれにやってきて収穫前の農産物を台無しにし、遠い地にも竜巻を起こしながら、時に人の命を奪った挙句、何事もなかったようにただの空気に戻っ(消滅)いくの繰り返し。

たまたまその進路の気まぐれが人の生活圏にハマった時一言「ついてない」というしかないのでしょう。

どうにもならないことです。

それを仏教では二字でもって「無常」と言いますね(→諸行無常)。

最近その意を三字でもって記すことが多くなったような。

 

それが「不条理」の語です。

大抵はどちらも同じような意味で使用しますが、その言葉のイメージとしては私には「煩悩主体の愚痴」の如く感じます。

無常の語よりその3文字の方が一般的にピンとくるというかわかりやすいのかもしれませんし「不合理」という語にも似ています。

 

その愚痴としての感覚は

①「なんで」②「私だけ」③「こんな目に」④「遭わなくてはならないんだ!!」・・・でしょうね。

同意でも「無常」の二字だと「万物変化することへの畏れ」であって「むじょう」の発音で他にも「無情」「無上」がありますのでわかりずらいところもあるでしょうが深くて味がある語だと思います。

私に与えられた人生の最大テーマであるという漠然なる達観(「四苦八苦は人生につきもの」)ですからむしろ腹の中に仕舞っておくものかとも思いますが。

 

その腹の中に納めきれない不満足・・・時に不幸福感・・・の表明が「不条理」であってその感情が含まれているような。

 

その「①なんで」の疑問は無意味ですね。「無常」ですから理由などはナシ。②③④も同様であって「無常だから」以外の理由は見当たりません。

 

何度か記していますがそこに「理由」をこじつけてその解法の提供をもってマインドコントロールを試みるのが今流行りのインチキ宗教。

親たちのスタンスとしてネガティブイメージ「無常」を教えず「無上なる幸福」なる幻影のみを子に伝えているのでは・・・。

ちなみに仏教の物語の中、釈迦が「無常」を体感(四門出遊)したというのは有名なお話でした。

「一切皆苦」の僅かなところでも触れさせなくてはイケません。

 

さて、法蔵寺の廣忠墓域の続き。

あの地に訪れると墓好き?と思われる人とすれ違いますが、私が目にした方々のうち、その殆どは「そのさらに奥」についてご存じないようで、ざっと廣忠墓域周辺を見てから東照宮に上がってから下っていく姿を目にします。

目的としてこちらが主であれば「余計なお世話」ですから黙ってスルーしますが、あの看板の記述をしっかり目を通せば了解できるところ。

 

「御親縁様方御霊廟 五輪塔 宝篋印塔など

山内の墓所

有親公(五輪塔)「晋修院殿増光長阿大居士」松平家初代親氏公尊父有親公は時宗の僧 長阿弥と称し徳阿弥(後の親氏)と所々

御遊歴境井村にて康安元丑年(1361)四月廿日寂 親氏公供養される」

とあります。

その記述に関しては他に諸説あってよくわからないところたくさん(その一つまたはこちら こちら も参考)。

 

ということで廣忠墓地からさらに奥へ進むと①の景色が見えてきます。大した距離ではありません。

大き目の五輪塔がまず一基目について塔身が五輪塔水輪の如くの宝篋印塔の数基がランダムに散らばっています。

 

歴史的にその存在がハッキリと断言できないというか、陰に隠れていて敢えて表に出ていただかなくとも大差ナシということか。しかし立派な五輪塔ではあります。