家康が選択?三方ヶ原戦没者供養石塔 法蔵寺

昨日は大雨の予報ではありましたが午前中にサラッと降っただけであとはお日さまが顔をだしていました。まぁ予報はハズレ。

 

私は寺テラスにて工作の時間を。

強烈な暑さを感じましたが2階の温度計を見ると40℃超え。

2階のエアコンから階下に冷風を送ろうも考えましたがもはや快適な温度まで下げるのは無理と察し、そのまま作業を続行していました。

早々に終わらそうとやっつけ仕事でしたが、やはり体力の消耗を感じます。熱中症になりうるリスクを感じました。

 

昨日ブログではNHKBS放送、今週土曜日に放映される私の勝手な趣向を2つばかり記しましたがそれとは別に毎年8月15日前後には戦争の悲劇と日本的組織の吐き気がするくらいの

道徳的勇気の欠」を含んだテーマでもって毎年新しい切り口の番組が製作放映、楽しみにしています。

 

先日は「沖縄戦争孤児」を視聴しました。

戦争の影響で親を亡くした子供たちを戦争孤児といいますが、生まれてスグの子から年長まで様々。

戦争には何とか生き残った子供たちではありますがその数は日本中で12万人を超えたといいます。

小さい子供となるとその出生、親、そして名前すら不明であることが多々あったとのこと。

 

沖縄の場合は内地と違って米軍の上陸戦があった場所ですから爆撃や艦砲に加えて地上戦によって一般人の死者・焼失度も半端なし。

街区そのものをリセットされてしまったようなものですから、保護者たる親がいなくなって戦場に放り出され、たとえ米軍の手でによって助けられたとしても「誰だかわからない」というのが実情だったことは私でも理解できるところです。

 

彼らは沖縄戦終了後に孤児院に収容されることになりますが、そちらで栄養失調や病気で命を落とした子供たちがまたぞろだったそう。

番組では生き残った子供たちにスポットが当てられていました。

何しろ、親の無い子供が成長することは筆舌に尽くしがたい苦難があるということがわかります。

 

孤児院は「親」を探しますがその親とは育ての親の募集となり、中にはお金を払って労働力として引き取られる例もあったとのこと。

その親からは言うことを聞かないと気絶するほどに樫の木でブン殴られた思い出や、ひもじく差別を受けながらの生活、そして知らない自分の本名を、未だ探している方の件もありました。

 

象徴的だったエピソードが、壕にいた日本兵が小さい子供を連れた年長の子供に向かって(弟や妹を)殺すことや壕から出ていくことを強要されることなどは多く聞いていましたが、米兵に撃たれた父親が亡くなって近くにいたその子供と父親の断末魔を見たアメリカ兵がハンカチを出して涙を拭っていたということ。

 

先日の番組ではフィリピン人が日本の兵隊は「バガヤロー(カをガと濁って現地の方が言っていました・・・)と言いながらブン殴るんだ」とのことでしたが地元ローカルの民を蔑ろ、侮蔑する姿ばかりが見える日本の軍隊から、各国人の人間性を俯瞰してみてやはりこの国のかつての軍人ほかエラぶった人種の劣悪さは顕著であると感じました。

 

その番組を視聴して、「私など極めつけの仕合わせ者である」をあらためて思った次第。

それは普通にいれば見失いがちになるところです。「両親が居る」その有難さの基本ですが・・・。

子はその親がいたからこそのおかげで育つということですね。

温かく保護され、食事を与えられ、教育を受けさせてくれるのは親だけだということも。

孤児たちは異口同音に「学校に行きたかった」と。

今、学校に行きたくないという子供は山ほどいるのに。

 

さて、再び法蔵寺。

東照宮の下の松平廣忠墓域について先日記しましたが、その墓の周辺には松平系の墓石のほか三方ヶ原合戦の戦没者の墓石(供養塔)が並んでいます。

供養碑の類は一石で大型のものというのが定番ですが、こちらのものはここぞという人間の名が出てきます。

家康の特別なはからいがあったのでしょうか。

 

こちらの北側の面の一列が三方ヶ原戦没者たちの墓になりますが、鳥居忠広と夏目吉信のみ看板に記され墓石前には標識まで立てられています。

まぁ予算の関係なのでしょうか。

他の方々の墓の名はだいたい判明していますのでそれ(予算)さえクリアできれば着手できるはずなのですが。折角ですからね。

 

一番最後の画像は毎度のもの。本堂の左上に東照宮が見えます。④に近藤勇の首塚の像が見えますが墓場の管理人の様。