恕ほど人を動かすものはない 三方ヶ原 夏目吉信

昨日より、当県の「まん延防止」の延長と。

私にはまったく影響のないことですが、さんざん待ち続けて結論を先延ばしした挙句、昨日「えいやぁ」という具合で決めたこといろいろありました。

 

まず、今年4月初旬に予定している「春の法要」ですが事前に告知と了解をいただく世話人会の開催をパスして回文のみで済ますことにしたこと。ひの有様、3年連続となってしまいました。

コロナ1年目の年は「春の法要」自体をナシにし、昨年は何とか開催にこぎ着けたわけですが、ここは一つ「緩み」をもって対応すべきではないと今年の法要も2回に分けて分散することにしました。

4月になれば障子を開けっ放しにしても寒さはそう苦痛に感じないと思われます。法要となれば口を開いているのは私だけですからね。

 

また、5月中旬に予定していたバス遠足もキャンセル。

まさかの再々々順延です。またも関係各位ご迷惑をおかけすること本当に申し訳なく思います。

どうかおゆるしください。

 

この結論は大抵の皆さん異口同音に「まぁしょうがねぇな」と「常識的」判断であると仰ってくれています。

「誰が5月にノー天気に行けるかよ・・・」の気持ち、大いに感じ取れますが。

現実問題として今その募集をかけても手を挙げる人はそういないかも知れません。

「絶対に行きたいので今度だけは順延しないで欲しい」という声もありましたが、大部分の方が「コロナ終焉を見てからでヨシ」とのこと。

無理にバスを発車させて何かあったら、まず「後ろ指」の笑いものになることは必定です。

 

数人でしたらどうにでもなりますが、40人を2日間も一つのハコの中に入れれば「何かある」と考えるのが普通ですね。

ましていまだ死者多数を誇る関西圏の行脚です、油断があってはイケません。

収束か終息か、一体このコロナとの付き合い、どこまで続くのか分かりませんが、いつもの如く「あなたまかせ」(他力)であることは違いないところですが。

 

さて、昨日の「布橋」。

あの「椿かな」のちょっと怖い句碑の少々先に今一つ石碑が見えます。

それが夏目次郎左衛門吉信の碑です。

数日前にブログで「阿弥陀の恕と家康の恕」などと記しましたが三方ヶ原以前、三河時代の家康は家臣団までも分裂してしまう真宗門徒勢(一向一揆方)と戦いますが、その夏目吉信は阿弥陀方(一揆勢)に加勢、そして敗北。

また家康に恕されたという流れです。

 

当家の成瀬藤蔵正義(拙寺3世祐傳)についても拙寺伝承ではあたかもこの夏目吉信の掲示板に記されていることと同様のことを聞かされていましたのでかなり昔、この夏目の存在を知った時は「同じだ・・・」と驚いたものでした。

そしてこのような人車の往来の激しい賑やかな場所に立派な石碑と案内板を建ててもらって・・・などと僻みに近い思いをしたものです。

正義の場合は討死した成瀬谷に近い閑静なお寺(宗源院)の堂の裏地に五輪塔が建っていますが。やはり正義の場合は人を斬って出奔、一向一揆のタイミングで家康方として帰参を恕されていました。

 

尚、三方ヶ原合戦で正義が討死した際は敗戦のドサクサで葬儀の宗旨は適当。

まぁ当時の家康は浄土真宗以外なら「オールOK!!」の時代でしたからね。

チャキチャキの真宗門徒だったといわれる彼の妻「勒」法名「釋(尼)妙意」は禅宗の戒名が記された正義の位牌と末子の傳助(釋祐傳)を連れて大澤寺の前身の「本楽寺」(当時菊川段平尾)に入ったのでした。

 

先日もまた拙寺初代は近江門徒ながら三河門徒の血・・・などと記していますが、この3代目祐傳からずっと「三河門徒」の流れに変わっているといってもいいかも知れません。

どちらの発祥でも流れであっても「あなたまかせ」(他力)の親鸞の教え(南無阿弥陀仏)はかわりませんがね。