本多忠豊の長子 忠利の田原西圓寺

昨日は叔母の検診のために気重ながら榛原病院、整形外科へ。

X線撮影後に外来受付に移動しますが、こちら待合はあいかわらずのベタ混みでした。うんざりさせられます。

そこにノーマスクの子供が走り回っていましたので少し離れた場所で待ちました。

 

若い母親でした。こういったシチュエーションでの子供たちの管理が慣れていないのか無知なのか傍観者の私としての所見はハッキリ言って「野放し」。その母は携帯を終始イジっていました。

一昔前なら周囲の他人様に「ブン殴られても仕方ない」といった親子の様でしたが注進する者はナシでした。

静岡人は優しいのですね。だからそれに甘えるという習慣が身に着いたのでしょう。

 

「管理」という点から記せば、受付担当が一言でも「お母さん、ちょっとタノム・・・」くらいの言葉があってもいいのですがね。

私どもは遠巻きにして傍観するだけでしたが・・・。

子供たちのウィルス保有率は高いと推測しますし、若い彼らの体の中で培養されたものは私たちの体に対して強烈な悪さをしでかしそうです。かつてのインフルエンザの時の強烈を思い出します。

ましてその空間をバタバタと動き回れば床近くに浮遊するウィルスを巻き上げるに決まっています。

 

まぁ私の方も一切のことを「恕」の元に生かされている身ですので年がら年中甘えさせていただいているワケですから他人様のことをとやかくどうこう言う立場にはありませんね。

 

院長先生は叔母の大腿骨に装着された金物について「1年経っていい具合で着いているので次は半年後でOK」と。これはボルトオンした骨が崩れずにしっかりと装着されていることなのですが、叔母は手術以来ずっと車いす生活。

そもそも大腿骨に負担は一切かかっていませんからね。

 

88歳の叔母の痴ほうの進行は見受けられずほっとさせられましたが1年間車いす生活をしていて、殆ど変化がないというのは奇特なことです。

つくづく思うのは次の転倒と骨折が無いことを願いたい。

さすがにそれがあれば今度ばかりは無事ではいられないのでは・・・「寝たきり」によるチェーンリアクションの始まりになるおそれがあります。

転んで骨折-筋力低下-歩行困難-一層の筋力低下-寝たきり-痴ほう進行-身体機能低下-老衰・・・の下り坂。

80近くになったら特に転倒骨折にご注意・・・

 

介護車両のお迎えの時間にロータリーに連れ出して日光を浴びてもらいました(ビタミンD)。

別れ際に「何か喰わせろ」と憮然としていましたが、その件、現状施設の禁止事項(コロナ対策)ですから仕方なし。

コロナが収束しないと8月の再検診までブランクがあります。次はどうなることやら。

 

さて、先日の拙ブログのタイトルに「本多忠豊 忠高 忠真・・」

など忠勝系直系の人たちの名を記し、忠勝は三河一向一揆以降浄土宗へ改宗したものの元はガチの浄土真宗門徒の一統であることを記しましたが、あと一人を付け加えます。

 

それが忠豊の長男忠利。忠高、忠真の兄ですね。

その彼はというとやはり真宗寺院(大谷派)、田原の西圓寺に入っています。

武士の家系にあって長子を仏門に入れるとは・・・と驚かれるかとは思いますが忠真の如く、仏道に入ったとしても主君危機の際には法衣を具足に替えて出陣することもありましたし、横須賀の大須賀康高はその子、信高を善福寺の開祖として仏の道に入れています。そのことから大須賀家は榊原家から養子として忠政を入れているくらいです。

 

真宗の教えはやはり「恕」をもって私が恕されていることを知ることです。自身が恕されているのだから当然に「他者を恕す」ですね。

私の勝手な思いですが、「貴方(阿弥陀)に恕されている私」と三河一向一揆によって一旦は敵(かたき)となった「私を主君家康が恕す」・・・それこそ同一の発想であってそれがその異種二つを繋げているのかも・・・と。

 

都合のいい解釈と叱られそうですが、そもそも「殺生」なる仏道では避けるべき悪行と思われる行為も仏智「恕」のおかげで有難くも「生かされている私」に気づかされつつ、つまるところ両立してしまうのです。

よって武道と仏道の「二刀流」が三河武士団にとって違和感なく受け入れられてきたのでしょう。

殺し殺されの戦いの中にいて、半面「三昧」に念仏する「私の大矛盾」と思える立場が居心地が良かったのかもしれません。

私の後生と亡き者たちへの報謝と反省も同時に念ずることができるというものです。

 

先般三河真宗は大谷派が圧倒的に多いと記しましたが、それが東西分かれることになった「東本願寺」のスタート、教如さんが家康派だったからですね。

また石山本願寺の対信長戦では教如さんは強硬武闘派で通していました。後継の秀吉の死後、関ケ原前夜石田三成に狙われた所以です(またはこちら)。

 

画像は田原の西圓寺(場所はこちら)。由緒には戸田宗光(またはこちら)の名が。

こちらもソテツがキレイに剪定されていて拙寺のそれを思うと恥ずかしい。