拙寺とは雲泥 美しき佇まい 芳蘚寺参拝 本多忠真

気温は高めながら風吹きまくりの一日。

いい塩梅で隙間風びゅーぴゅーの様子がわかりますので、風呂脱衣場の戸のさらなる密閉度アップのための手を加えました。

とはいっても大した作業ではなく材の装着場所を変更しただけでしたが、結果はすこぶる良好でした。

ただし庫裏は天井から床下から襖から、冷気が進入する場所が多数ありますので限定的(寝床の近い・・・)なケアとなります。

まぁ殆ど諦めということですね。

 

さて、全国かく数多の寺というものがありますが、その創建のきっかけたるやまさにいろいろです。

当流で言えば、御開祖親鸞さんとの出会いによって仏門に入ったりこれまであった寺の宗旨を変更したりしてその「南無阿弥陀仏」をこれまで継承してきたという発祥の古いパターンがありますね。

 

それにしても宗旨変更の件、親鸞さんほか蓮如さんなどそのタイミングの時代背景は違いますが、ふっとやって来た旅の僧を寺に泊めたことからの英断(宗旨変更)たるや如何に・・・と思いますね。

その親鸞さんも蓮如さんも時の権威に対して、罪人となって遠流になったり、身を隠したりの逃亡者、いわゆる今でいう「負け組」の立場ですからね。

 

どれだけ説法が上手く、多くの人々の心をつかむことができたか・・・本当に凄いことだと思いますね。

 

拙寺にも私が入ってからも各方面より色々な人が訪れてきて、御説を賜るわけですが、あげていれば枚挙に暇がありません。

変わり種としては10年以上前「私は画家である」という方が訪れました。

その方の書いた絵を掲示されて、「本堂の片隅でも仏間でも構わないので数か月寝食、面倒を見てくれ」というもの。夜は酒の少々でいいのでタノムとのことで、その礼として襖用に絵を描くというものでした。

 

どこの誰とも知らぬ方が突然やってきて「逗留させてくれ」の談ですがやはりどう考えても無理な話。まだ父母も健在、息子もちょろちょろしていましたからね。

同じ屋根の下、他人様と同居するというのも面倒な話。

まぁ、そのやり方はとても古風でまた芸術家として面白いとは思いましたが丁重にお断りしました。

「軒先を貸して・・・」の諺もありますが理由の一番はその絵が私好みではなかったことですね。ただし名前は忘れましたが「もしかして大化けしたかも・・・」などと心の片隅にその件残っています。

 

そしてまた入寺したり庵や寺を興して仏法流布の道に入るそのきっかけで多いのが戦役の無常でしょうね。

戦いの末に親類縁者は勿論、戦場の死屍累々の様子を目の当たりにして僧籍を歩むことになったなど多く聞きます。

有名どころでは熊谷直実がありますが、当流も成瀬勒(釋尼妙意)がその息子傳助(釋祐傳 三代目)を連れて拙寺に入ったのもそれですね。

きっかけは三方ヶ原で夫の藤蔵正義が討死したことでした。

 

昨日はやはり三方ヶ原で討死した本多忠真について記しましたが彼の場合は既に僧籍に入っていて、家康の窮地に際してその戦いに参戦して討死していますが、一足先に僧籍にあったのは兄の

本多忠高(忠勝の父)が討死し、なお主君の松平広忠(小豆坂の戦い)は若くして亡くなったことがきっかけとのこと。

 

当時は一向宗と周囲から呼ばれた浄土真宗の門徒衆の感覚というものは特殊です。仏門にありながらイザという時は戦闘にも参加する・・・一見すると矛盾を感じますが、そもそも人はその矛盾(煩悩具足)と蛇蠍のごとくの心であって大層な修行を重ねたとしてもそれらから逃れることはできません。ただ念仏するのみで今生かされている身を歓ぶのみ。

また身は果てたとしても後生の大切については既に安泰の確信と赦しを得ていますからね。

ただ武士の場合、阿弥陀さんをとるかかつての主君をとるかの二者択一の大問題が残りますが。

そこで本多忠真が選択したのは、両方とも取ったということ。

 

甥の忠勝は三河一向一揆の際には浄土宗に改宗していますが、そもそも本多家は浄土真宗。

ちゃきちゃきの一向宗門徒、「三河門徒」でした。

 

その本多忠真が入寺したお寺が浜松城にも近い芳蘚寺(場所はこちら)。

戦国期に創建の多い真宗寺院ですが、こちらのお寺の歴史は古く中遠桜ケ池伝承の阿闍梨皇圓関りからの起こりで平安期。

蓮如さんの時に真宗に改宗したといいます。

 

浜松駅前の繁華街から少々、何より本堂、境内はピカピカです。

これは浜松は静岡と同様、戦時中に艦砲や空爆によって蹂躙されたからですね。

 

墓域もピカピカの感。

古い墓石も戦災で破壊されたのでしょうね。

その中で私は浜松の旧名「引馬」を姓とする家の墓標、数点の存在に由緒たるや如何に・・・などと興味を惹かれるところ。