徳阿弥とその父長阿弥 お髪塚 當麻山無量光

先日お参りに来られた方が「愚痴を言うのも何だが、最近、悪いことばかり・・・」と。

その手のお話について聞いてもらえる場所はなかなかありませんからね。

砂利洗いの作業中の手を休めてその件聞かせていただきました。

すると、ついこの間のこと、アパートの自室に年配の方を残して近くのコンビニへ買い物に出たそう。

買い物を終えて自宅に戻る途中「火事だ」の声が聞こえてきて

さらに歩くと前方に煙が上がっているのが見えて自宅前に着いてみれば煙の上がっている部屋はまさに自宅だったとのこと。

激しい煙の中、部屋に入ろうとするも「諦めた」そうで結局室内の方は亡くなってしまったと。辛いことですね。

死因は一酸化炭素中毒とのことですが御当人も煙を吸い込んだため念のための検査に取り調べと拘束されたようです。

失火原因がタバコの火の不始末といいますから、たくさんの後悔が残るでしょうね。

 

水浸しとなって他の部屋の住人にも迷惑をかけたことでしょう、三部屋の住人が転居したといいます。

謝罪の連続が予想されますが、問題は火災保険ということになりますね。それについてお伺いすると居住期間が長いため、仲介業者はなく大家さんと直接契約しているため保険について「自身掛けていない」とのこと。

大家さんの裁量でそうであったならば、大家さんの責任ということになるでしょうが、最初に投げかけられた「悪いこと」、なるほど違いない。

 

冬場の乾燥期は少々の火種であっても短時間で火は広がりますね。以前小田原に住んでいる時隣家よりボヤ騒ぎがあってどなたかが「119」。

消防の皆さんが大挙して騒然の様子を部屋から傍観していましたが煙が出ている箇所に、ホースを向けて強烈な圧と水量でその箇所を圧倒。

「もういい頃合いだろう」というところに今度は大ハンマーを持ち出して問答無用で壁を壊し出しました。

外壁と内壁の間の状況を目視して鎮火を確認するという徹底した「責任」ですが、ボヤ程度、半焼などと言っても一旦火が出て119を呼んでそれなりの仕事を依頼すれば「もはや家には住めない」というのがまず大抵の事。

 

それだけにほんの少しでも火は出せない(出してはイケない)のですが、人間というものは平穏無事のノーミスを常に自身心に持っていながらも、信じられないようなミスを犯すものなのです。

毎度毎度の私のミスだらけを見ていてもわかりますね。

要は「それを承知していながら失火する」その件重々肝に銘じておかなくてはならないということです。

この時期、常に思うところです。冬季の強風は特に周辺家屋に延焼をもたらします。

 

さて、當麻山無量光寺。

仮本堂(本堂焼失後、以来そのまま)の後方が墓域になりますが向かって左側に土饅頭があってその頂上に二基の五輪塔が立っています。

こちらがお髪塚。

 

「南北朝の頃、応安元年(1368)新田義宗が南朝方につき挙兵の折、徳川家康の先祖であります世良田左京亮有親、松平太郎左衛門尉親氏父子が義宗の側につき戦いましたが戦に利あらず、父子共々戦乱を逃れてこの寺に入りました。

そのまま八世良光上人の剃髪を受けて出家し、その髪をこの塚に埋めたことから、村人は「お髪(はつ)塚」と呼ぶようになりました。その後、有親は長阿弥、親氏は徳阿弥と号し修行に勤めました。父長阿弥はその後この寺で亡くなり、九世慈光上人によりこの塚に遺骨を納め五輪の塔を建立し供養したと伝えられます。息子の徳阿弥は西下し三河の地において松平家を起こし徳川家へと繋がったのです。」

 

尚、本堂火災の件、お寺のサイトをさらに転記すると

「天正19年(1591)には徳川家康より30石の寺領を寄付され寺門は大いに繁栄したそうです。しかし天文年間には北条、上杉の戦の折に伽藍が焼失し、天正年間(1573~1593)、元和年間(1615~1623)にはともに火災にあいました。安永2年(1773)の火災においては絵詞伝8巻を始め、貴重な寺宝が多数焼失してしまいます。

その後再建された堂宇も明治26年には全焼し、現在、旧本堂跡は空き地となっており、一遍上人の銅像がそこに建っています。」

 

わかっていながら火事になる・・・そういうものがまた火事。

念入りにしているはずが間が抜けている・・・それが人間。

 

本堂があった場所にある一遍上人の像はこちら