幸田一番の丸山古墳頂上から野場方向を望む

横浜の息子はおかげさまで体温は36度代で安定、ただし体力は元に戻らずにただ寝てばかりと。

やはり喉の痛みがとれずに、完全復活までは程遠いとのこと。

坊さんという仕事はちょっと困ります、声が出ないのでは・・・

ソーリ殿はアメリカ産の薬を処方されていることはまちがいないところですが、あの症状も軽そうな元気ぶりの姿を見て「あの薬は相当効く!!」と思うばかり。

 

年齢差を考えてもそう。

20代の連中が七転八倒の苦しみ、「もしかして死ぬのでは・・・」の思いと後遺症に悩むことになるのですからね。

さっさと皆に平等に「配れよ」です。

 

さて、夏目吉信(昨日)は三河一向一揆1563の際は家康と対峙して一揆側に付きます。

交戦籠城の吉信らは松平伊忠に包囲され遂に交戦不能。

そこに家康の「恕」あって伊忠の包囲は解かれて命を拾ったという次第。

そこから三方ヶ原の「身をもって」に繋がるのでした。

 

この吉信が立て籠もっていたいた場所がそもそもの彼の六栗城だったのか幸田の北、広田川の大きく湾曲したその南側の「野場」という地であったのかの説が分かれているようです。

事案としてのその記述はあっても場所の確定できる史料が無いからですね。

 

この野場という地は南東側は開けていますがその北西への街道(幸田石井線)は丘陵の切通となっていて、北西側から南下するには比較的進軍しにくい場所になるかもしれません。

 

その狭小となる場所に幸田で一番大きいという丸山古墳に上がってみました。どうしても私は古墳があれば上りたくなる性分ですがさして意味はナシ。高いところが好きなだけ。

ただし古墳によっては何か発見がりますよ。

こちらの古墳は盗掘があったそうで上部に石室の材らしきものが露出していました③。

 

まぁ野場方面を眺め、陣を置くにはもってこいの場所かと。

⑤⑥が野場の集落。

⑥に見えるお寺が専光寺