幸田の名は広田川から 明善寺付近の墓地 六栗城 

昨日記した、子供たちの「学校に行かない」の選択肢の件、それを採用するかしないかは彼ら個人の自由。

しかしながら「アレがいや、コレがいや」の不平不満の積み重ねから安直勝手自由世界への回避の連続があったとすれば人生に付き物であってかつ「玉」(宝物)として人を育むに大切な「艱難辛苦」が不足がちに陥ることになってしまいます。

「艱難汝を玉にす」ですね。

苦しみとは楽しみの種。

「辛さ苦しさから逃げるのは自由、しかしその傷みが貴方を育てるのだ」ということですが、まぁ若い子たちにはその意が通じないのでしょうね。

困った~困った~。

安直ショートカットに不都合な場面のリセットに慣れ親しんだ世代は・・・。

辛いこと、遠回りする面倒くささも成功の種なのに・・・

チャンスを自ら捨てていることになること、勿体ない。

校に行け・・・チャレンジしてみろ・・・

「どうする・・・」の切羽詰まったシチュエーションも経験しないとね。家康は決して順風満帆ではなかったのですから。

 

さて、三河は幸田の明善寺。昨日の続きです。

「幸田」の名は拙ブログでも何度か登場していますが、どう見てもその名の「幸」はキラキラネーム感が溢れていますね。

以前地頭方海岸の「鯱岩」(しゃっちゃ)という名が読みにくくて無粋だということから「幸岩」に変更しようという案が地区議題に上がったようなことを記しましたが、その字から来るイメージは絶大の様。ちなみに私は元の「鯱岩」派。おかげさまでその手のキラキラへの変更がされたという噂は聞こえてきません。

各地でその字「幸」への変更があるようですがね。

 

その字はそもそも「最悪の機縁から免れて普通に近い落しどころ」に「今あることができた」喜びを表すものと解していますので、私はその「機縁」の方を強調して「仕合わせ」を使用することが多いのですが。

世の中は「幸」が大好きの様ですがね。

もっと付け加えればそれを願うから間違いなののでしょうね。願えばまず挫折を招きます。

願われているのは私の方(阿弥陀と諸仏から)、図らず気張らずおまかせのまま、難しいですがそれが最良のスタンスでしょうに。

 

その地名の「幸田」は広田川からですね。ただ「幸田」の場合は「こうた」であって濁らないのです。

やはり同町に「深溝」(ふこうず)といった、より著名な地名があります。よって私はその読みが「不幸のイメージ」がするので何とかしたいという気持ちから「幸」を持ってきたのではないかとも一瞬思ったほどでした。

個人的には「深溝町」であってもイイくらいだとも。

 

その広田川が大地を削って開いた低地を中心に開墾。

JR幸田駅から西側の丘の途中に明善寺がありますがこの辺りの地名は六栗と呼びます。

この明善寺のある地が夏目屋敷があった場所で夏目吉久が城塞化したといいます。そしてそれが六栗城。

 

昨日はあの三基の元となる墓碑が元にあった地について記しましたがそちらの字名は中屋敷でした。

夏目家家臣団の屋敷の存在あるいは城址の中心地が推測できます。

そして昨日の画像③の明善寺北側の広田川に向かう河川を「掘」と記したのもその六栗城の存在を私が勝手に意識したものでした。

 

城郭の存在を確定できる史料も残存遺構を推することができる場所も見渡せず、ただ行きたりばったりで入ったのが地区に二つばかりある墓地の一つ、寺から北西にある「六栗中屋敷霊園」。②③④⑤の東側の林の中に⑥⑦。祠が何を意味しているのかわかりません。

 

④の自然石の石塔の墓碑を眺めると夫婦墓を思いました。

元文と享保の元号が見えますので江戸中期。法名からして真宗系であることがわかります。

この地でも人口は減っているようで無縁墓はそれに伴って増えているようです。

 

もう一方の墓、寺から南西の墓地には六地蔵がお迎えしてくれます。

地蔵前に蓮台はありません。棺を置いたか、荘厳するために使用したか判りませんが、それらの存在から元火葬場だったことがわかります。

⑧は昨日の画像③の真裏からお寺方向を見やったところ。

⑨⑩⑪は地蔵のある墓地から見た寺の裏方向。

 

夏目吉信は三河一向一揆の際は一揆方について家康と敵対。

こちら六栗城に籠城して捕縛された説もあります。家康の恕があっこその三方ヶ原の戦働きでした。