兵戈無用と念仏三昧堂 専光寺は本願寺派 

ここ数日は大分温か。

ここ二日は朝の庫裏の気温は12℃。

一時より5℃ほどの上昇があったわけですが、まったく体感は違います。「冷た~い」を感じなくなってこれからの季節に期待。拙寺の梅で一番遅く開花するシダレがぽつぽつと咲き始めましたことも嬉しい変化です。

昨日はまたポカポカ陽気で外を歩きましたが久しぶりに汗が額に浮かんできました。これまではまったく無縁のことでしたからね。

 

一昨日は午後から雨がふりましたが突然のご自宅お内仏でのお勤めを依頼されました。

「雨になっちゃって」の何の気なしのご挨拶をしましたが、「私はありがたい」と返されてしまいました。

そういえば、御当家は農家。本日の仕事、午後の作物への水やりが無用となったということですね。

 

無用などというと少々のネガティブ感が漂ってきますが、人々皆々のより良き生活にとって不要のものは無用です。

逆に有意義なものは必要です。

 

以前、本山東本願寺の白書院「国豊民安」の扁額について記しました。そして

『仏説無量寿経』の中の「天下和順 兵戈無用 国冨民安」を復習です。よい頃合いに雨が降ったことの歓びの声を聞いて思い出しました。

兵戈無用(ひょうがむよう)とは“武器も軍隊もいらない”という言葉。

重ねて記します。

「(仏が歩み行かれるところは)国も町も村もその教えに導かれないところはない。

 

そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」

 

最近は私も殺生を半ば肯定するかの如くの真宗の歴史、ダブルスタンダードについて記してきましたが、この言葉を聞き直すとハッと我が身の軽々しさを思い知らされます。

世界中から戦争も武器も無くなればいいのですが・・・

抑止力の武装・・・ねぇ・・・

 

画像は額田郡幸田町の専光寺(場所はこちら)。

たまたま前を通過してその名を見て立ち止まりました。

「専らの光、照らす」とあれば阿弥陀仏を思い起こしますからね。こちらは大谷派の多い西三河ながら本願寺派のお寺です。

お寺の掲示板には「兵戈無用」。

「念仏三昧堂」の額も渋いですね。

「さんまい」と発し濁りません。