深志-深瀬-鵞湖はフケ田 松本城水野忠直奉献灯籠 

若者が多いようですが未だにウレタンマスクを着けて街を闊歩する様子をテレビ画面で拝見します。

この時節「バカなの?」などとトーキョーの友人「女墓場」風に嘲りたくなりますが、慌てて息子に「まさかウレタンマスク着けて息巻いているのではないだろうな・・・」などとメールで再度確認。するとさすがにそれはなく不織布マスクを確りと着けて日々過ごしているとのこと。

ウレタン系のそれは見栄え100%のみ、マスクとしての効果はゼロといいますからね。その言葉に一応は安堵させられました。

 

トーキョーの叔父は外に出る時はその不織布をダブルにし、必ず決めていることといえば「飲食店に入らないこと」と。

奥さんも外に行く頻度も少なくなって家で黒にんにく作りに励むようになったのでしょう。

 

またテレビは9.11関連の番組が連なっていました。

午前の法事が終わって私どもは『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を鑑賞。

いろいろと思うところがある映画でした。

「何もしないでいるより失望した方がマシ」のような言葉だったと思いますが主人公の少年の超越した探求心に恐れ多さと何やら懐かしいような心持ちとなって、そのインパクトのあるタイトルの意味を終始考えつつ、人とはたくさんの人たちとの関りを得て成長があり彼のその探求のきっかけとなった「キー」と結末には(悲しすぎますが)どこかほっこりした感じも漂わせていました。

あの事件で家族を壊された家庭そして子供たちがどれほどいたことでしょうか。それにしても20年(2001年)とは早い。

 

またNHKスペシャル「9.11 閉ざされた真相〜遺族と国家の20年〜」を視聴。番組紹介を転記すれば「経済と安全保障で深く結びつく両国の特殊な関係。国益を優先し、遺族に背を向けてきたアメリカの姿を伝える。」の通り、あの重大事件とサウジアラビアとの暗い関わりの部分がますますと浮かび上がって、国家優先の被害者置き去りの雰囲気が漂っていました。

不可解な点が山ほどあるサウジアラビアというお金持ちの国とのかかわり、嫌な感じプンプン匂っています。

 

また、どちらでもそうですが我が国など新コロ初期対応の稚拙による国民大量死とワクチン副反応による死者増加の点なども「国家優先」の計らいが見えています。

「ある程度の死者は許容されるべき」・・・いつでもそんなものですね。

特筆すべき点はいつもおエライさんは「自分が死ぬこと」を頭に入れていないところ。

 

それからNHK「事件の涙」。

9.11事件で亡くなった日本人(24人と)の家族にスポットが当てられていました。おそらく番組冒頭と中盤のお内仏前でのご称名の姿はお西のものだったかと。

「早く帰ってこい」とお内仏前の空の骨壺に語り掛けていた姿が痛々しく印象的。

 

さて、昨日のブラタモリは松本城でした(ちらも)

昨日まで記していた三河の武田構築の古宮城とその付近の件ですが平城ということで要害性は周辺の「深田」のみで二つの大河(矢作川・豊川)の分水点があるなど「水」の恩恵の計り知れなさを思う城でした。

食べ物が枯渇しても水さえあれば数日間は持ちこたえることができるといいますからね。

何しろ水の存在は防御性はもとより生存維持のためにも不可欠でした。

 

その番組ではその水の存在こそが山城との優位性であるとさらっと触れていましたね。

大河ドラマ「風林火山」ではこの「松本」の語は出てきません。ただし昨晩の番組でも言っていた通り「信玄が30年余」関わった城でもありました。

元の名は深志城または深瀬城そして鵞湖城。大河ドラマでは「ふかし」と呼んでいたかと。上田城のフケも参照。

その字面はまさに「深田」であり湖沼。

殆ど信玄が好む平城の要素を感じ取れます。

 

その辺りの城郭大系での記述は

「松本城があるあたりは松本平でも最も低平な場所。女鳥羽川・薄川・牛伏川・田川と奈良井川が城の近くで合流し、湧水にも恵まれている。城の北西4kmの地点で奈良井川が飛騨山脈から発する梓川と合流して犀川となり、大河の趣を呈している。」とありました。

 

もとからこの城の南には小笠原長時時代の城塞、林城がありましたが天文十九年に信玄が入った際、他の支城群と林城には着眼せず、この地「深志」に信玄の城として改築を行ってからがその城の始まりとなります。

そこをベースとして東から北信濃の切り取り攻略に励み、または対上杉戦を持続するための有力な城となったのでした。

 

城代として馬場信春の名まである武田としては最重要城塞でしたが空しくも長篠戦以降の武田の凋落ぶりの流れから城は放棄、そのあとは目まぐるしくその城の取り合いが続いて管理者が入れ替わる時期を迎えます。

 

安定期と城郭の改装拡充時代の城主を石川数正二代(息子康長)とするのが今の城郭形成のスタートで徳川時代になってからも目まぐるしく城主は変わります。

 

石川-小笠原秀政・忠真-戸田康長・康直-松平直政-堀田正盛-水野忠晴・忠職・忠直・忠周・忠幹・忠恒-再び上記戸田氏~ 

戸田光慈から九代で明治維新という流れになります。

すべて徳川と関りのある家でそこからも信州の要所を思わせます。

 

画像石灯籠は松本城本丸庭園に立っていますが元は上野の寛永寺から。寛永寺が競売にかけて手放したそうです。

それを松本出身の人が買い取って松本城へ寄贈したという流れ。

 

「延宝九年五月八日」(1681)「信州松本城主従五位下水野忠

」とあります。

松本藩主水野忠直が、「厳有院殿」-四代将軍家綱-の供養に寛永寺に奉納したものですね。

灯籠の装飾、猪目にもご注目。