セレブの墓域「麟祥院」再訪の件② 本多忠如の墓へ

朝から雨。

午前と夕方に法務で外に出ましたが参列者の皆さんはより大変だったでしょう。ただし私が外に出た際は脅されたほど酷い嵐にはなりませんでしたがこれはおかげさま。帰宅したあと風雨が強くなっていました。

 

雨の日の境内墓地お参りは足袋浸水のおそれがあるため、今回も下駄にて出動。草履とは数㎝の「嵩上げ」がある分かなり有効です。

ただしそれで車の運転はできませんので、境内のみですが。

 

雨に加えて横殴りの風など吹けば毎度本堂に上がる参拝者の靴が心配になります。

それは少々対応に苦慮。堂内に持ち込んでもらうにしろ置き場を設けなくてはなりません。

いつもその辺りまで考えては「また今度・・・」とゴマ化している私がありました。

 

 

さて、昨日記した麟祥院再調査依頼の続きで、本日は本多忠如(ただゆき)の墓です。

そもそも友人の「女墓場」に再訪を依頼したのは当初麟祥院

 ついて記した際に「お祭り大好き」さんからご指摘があったからですがその人の墓がそちらにあることは私は「へ~え」でした。

それならということで彼女に「また行って・・・」と言う具合に依頼したワケですがスンナリと再訪していただき、その墓画像を送ってもらいました。

敢えてさらに注文したいことを記せば「文字がつらつらと彫られている箇所はすべて、そして角度を変えて数枚・・・」ということ。フォーカスが合っていなかったり光の具合で判読できない個所があるからですね。

とにかく男性女性かかわらずどなたもその世界に飛び込んできて欲しいものです。

墓場放浪の女性進出、ますます期待するところです。

 

取り敢えず復習。

本多忠如は、何といっても遠江国相良藩3代藩主というのがポイント。当方相良の皆さんにとってもこの「本多」系はこれからの田沼以後(現状「田沼」主体の町おこし・・・実際の本多さまは田沼より前)のビッグネームになります。

その「本多」と言えば勿論「本多忠勝」が思い浮かぶところですが、そちらの家系は忠勝(平八郎)流と申し分ない血脈です。

 

本多忠勝-忠政

       |  -忠義- 忠平

     熊姫      忠利

             忠以 

       (相良藩初代) 忠晴 - 二代忠通 - 三代忠如 

 

忠晴の墓は小堤山、忠通は大江でした。

 

忠如は陸奥泉藩へ移封して相良を去ることになりますが特に本多家諸流ある中、この流れについて特筆すべき点といえば「忠勝流」ということ以外に何と言っても徳川将軍家の血脈に近いというところです。

忠勝の子、忠政の正室が熊姫(ゆうひめ)-妙光(高)院ですが、その人と言えば家康の長子「信康」と信長の長女「徳姫」の間に生まれた子(次女)。

 

東照大権現と織田信長、そして戦国期「勇猛果敢」の大代表といわれる忠勝の血を引くというスペシャルな家系なのでした。

一言で戦国のブランド名が揃っているということですが、春日局の麟祥院に墓があるというのも頷けます。

 

「壷山老侯蕭公之墓」。壷山(こざん)は忠如の別名。

学者肌のイメージが漂いますね。③に「相良」の文字が見えます。

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (月曜日, 22 3月 2021 11:17)

    「女墓場さん」の再調査に感謝!感謝!
    「本多忠如墓所の映像」を初めて拝見しました。 そのうえ「被葬者事績調査報告書」も添付いただき相良藩主の歴史理解度が向上しました。
    ③④の刻字で「波津宝泉寺位牌堂安置の本多忠如位牌と戒名が同一(葆真院殿冲翁玄冥)」・「撰文者が小堤山公園本多忠晴墓所内の顕彰碑と同一の宮田明」と確認できました。
    初代忠晴が宝泉寺と2代忠通・泉藩2代藩主忠籌以降が江戸弘福寺といずれも黄檗宗を菩提寺としており、3代忠如だけが臨済宗は新しい謎です。
    なお、現存する大江八幡宮の本殿を寄進した2代忠通は、来る2021/7/2金が没後300年の命日です。(波津区では忠晴の供養祭を毎年斎行中)
    牧之原市では、田沼意次生誕300年イベントを盛大に実施し銅像もできるようですが、本多さんについては・・・・・。
    ちなみに昨年の300回忌命日は、海老江にある忠通供養碑の周辺は草もきれいに刈られていましたが、参拝者は一人だけでした。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 23 3月 2021 07:10)

    ありがとうございます。
    黄檗・臨済・曹洞の差異は当時それほど感じなかったと思います。
    相良の皆さんにもこの本多の殿様の存在をあらためてお知らせしていきたいものです。