主人の転封 家臣も家族同伴  本多忠晴家中・・・

静岡県内で一番多い苗字は言わずと知れた「鈴木」(スズキ)。

特に遠州は西、浜松辺りに集中しています。まぁ日本中では二番目に多い姓で、こちら辺りでは「スズキの鈴木さんから鈴木さんにお電話です」などいう冗談みたいな会話があったりします。

 

先般静岡県内の苗字「ベスト30」が出ていましたが全国との比較が面白いところ。全国的には3ケタとそうは多くない苗字でも当県にあって多いというのに着目です。

当中遠地区によく見かける「村松」「松下」など最近では池新田新野に多くあることを感じていました。「大石」もそうですがまずは、高天神崩れを思います。「望月」はこの辺りではそうではありません。駿府周辺の名でしょう。

 

さて、当山鐘楼の裏に仮置きしている墓碑については今後ぼちぼちと判読していきたいと思っていますが中には判読不能あるいは欠落部分もあります。

私には古文書研究会を主催している叔父がいますので、機械的にデジカメで撮影してバンバン送りつけてしまえばいいのですが、今のところ墓石そのものの整理が行き届かずまったく遅遅として進んでいません。原因はただ単純、墓石は「やたら重たい」からですね・・・。歳をとればとるほどヤル気が失せていきます。

 

判読もしやすく、なるほど、情報量としてもまずまずの墓石もあったりします。こちらの墓石は比較的古い門徒のサイコロ形。少々たて方向に長いタイプです。

 

墓碑に記された文字は・・・

 

左   俗名 鈴木新郎喜則

正面  釈了壽   釈妙壽

右   三河国加茂郡高橋庄足助郷上伊保邑之産

    寛保二壬戌霜月十日

    于爰逝

 

鈴木新郎喜則については

釈了壽 本田越中守殿御内 鈴木新郎 

                                  寛保二年(1742)十一月十日

と過去帳にありましたが、釋妙壽についてはよくわかりません。ただし、

釈妙壽 本田越中守殿御内 石原又右門 妻 享保十年・・・という名はありました。繋がりがあるとしても経緯は不明。

前後に同じ法名で他に何も記されていない方がおられるので何とも言えません。

 

さて、出身について記されています。

上伊保邑(かみいぼむら)とは現在の豊田市です。

三河伊保藩は慶長五年(1600)丹羽氏次が22か村、一万石にて初めて入り上伊保(豊田氏保見町)に陣屋を置きます。この丹羽氏は織田家から秀吉を経由せず家康の家臣となった人で、その一万石は勿論関ヶ原の戦働きから。織田家ではより名のある丹羽長秀とは直接関わらないようです。

 

次代の氏信は一万国加増され美濃岩村城へ転封。一旦幕領となったのち白河藩本多氏の流、浅川一万石の本多忠晴が同石で入封します。本多忠晴は宝永七年(1710)にこちら初代相良藩主として立藩したため伊保藩は廃藩しています。

 

鈴木新郎は三河上伊保邑の産まれ、とあります。鈴木姓を名のっていますので武門の家は見当のつくところ。

足助の地もまた鈴木氏の時代がありましたし、本多家が陸奥より伊保邑に同行させた家かも知れません。


現在の相良の鈴木氏諸家との関わりもわかりませんし、子孫は主家と次の地へ赴いたのかもわかりません。

おそらく後者でしょうね。主家に付いてたまたまやってきたその地でただただ尽す。これも「一所懸命」たる由縁です。

相良本多家のどちらの代で何処に赴いたのかは、より踏み込んだ資料の探索が必要です。

ただ墓碑銘のみが・・・

 

墓碑の最後の部分「于爰逝」は 

「爰(ここ)于(に)逝(いく)」です。