「忠」付きをアピール 本多忠晴家墓域 標識更新

マキの垣根のちょっと気になる箇所をやっつけてから昼食を兼ねて掛川まで奥方に同行。

まさに昨日の青空は心中ウキウキにさせました

「秋なのに夏」という不思議な感じで8月のキツイ暑さとは違って爽やかさがあるのです。

ただし相変わらず境内で会う人からは「暑い」のフレーズの連呼がありました。

 

帰宅してから満載だった剪定材を空にした軽トラの荷台に外の駐車場に並べていたハイビスカスの鉢を積もうと準備していれば静岡の秋野氏が来訪。

ちなみにハイビスカスは台風15号対策です。

あの台風は日曜に限りなく静岡に近づくという進路予想が出ていますので事前に。

 

秋野氏は以前(2008年)撮影されたという種子島産の砂鉄から作る鉄砲(全国火縄銃大会)の様子を映したDVDを持参してくださいました。

そして6日の「静岡新聞」に秋野氏の投稿が載ったこと、棚草の雲林寺の棚草本城山の今川様に行って帰りに正林寺の義忠の位牌にお参りした事等々、やはりこの「秋なのに夏」を謳歌してきたよう。タンクトップから出た二の腕は真っ黒でした。その新聞を買ってきて投降に目を通しましたが氏の齢は何と75歳であることがわかりました。元気の秘訣をここでも垣間見たところです。

 

先々月に小堤山の本多家法要について記しましたがその情報源はやはりその秋野氏からでした。

昨日その話の中で墓地の「案内標識」が更新されたという情報を得ましたので、ちょいと見に行ってきました。

 

行ってなるほど、見事でした。

秋野氏が以前の案内標識には無い「忠勝」(他は下のサイトマップからどうぞ 「ctrl+F」で検索)の名を入れるべきとの注進を教育委員会にしていてこのほどそれが成果として表れたとのこと。

 

新品の標識にはしっかりとその名が。

やはり本多といえば「忠勝」でしょう。

その名を入れるかどうかで歴史好きへのアピール度はかなりアップするでしょうからね。いずれクローズアップされていくのでは・・・田沼一色お祭りムードの相良で「それを言っちゃあおしめぇよ」ではありませんが、田沼意次と本多忠勝とでは格の違いは圧倒的ですからね。

 

以前の掲示板はこちらです。

本多忠晴墓域は小堤山の南側斜面中段に並べられていますが②

開削整備前といえば墓の向かいの森の中にありました。

旧駿遠線のトンネルの上といえばわかりやすいですが、そのトンネルの北側に黄檗宗の宝泉寺がありました。

明治維新の廃仏毀釈の際にその宝泉寺が廃寺になったあと石坂周三がそちらを拠点としていました。

 

「秋なのに夏」の景色として今一つ、③の雪の無い黒い富士山ですが、だいたい真夏には富士山はそうクッキリ見えないものです。昨日は暑い中にあって空気は澄んでいました。

あまりにも心地よく室内に居ることが勿体ないと感じました。

 

最後の三枚がマキの垣根。

最後の画像が剪定前のもの。

ブーゲンのピンクの花が少しばかりですが咲いてくれています。あちらは陽当りもあまりよくないうえに墓参の皆さんが余った水を撒きますので、コンディションが悪いようです。

 

看板についてケチをつけさせていただければ、「本多忠勝」の名を行を変えずにレイアウトしていただければ・・・と思ったところです。

 

 

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コメント: 4
  • #1

    小山昭治 (土曜日, 07 9月 2019 08:50)

    毎朝 本田様の墓所を見て思うこと。
    回りのお墓は何ですか。
    一緒に死んだわけでもないでしょうに
    いくら主君とはいえど死んでまで奉公でしょうか。
    記念碑?

  • #2

    今井一光 (土曜日, 07 9月 2019 19:23)

    ありがとうございます。
    元の墓域がどのようであったか不明ですが、本多家関係の墓が散在していたものを
    まとめて移動させたものでしょう。
    仰る通り墓石の数はたくさんありますね。
    詳細深堀りしていませんが、忠晴に付いてきた一族郎党家臣団の墓ですね。
    忠晴が宝泉寺を建立しその寺に帰依したということは「相良に骨を埋める」ということ
    を心においていたことは疑いはないでしょうね。
    相良に転封してきたのは70歳です。

    江戸屋敷にて75歳で亡くなったのちに相良宝泉寺にて葬儀が執り行われたといいますので忠晴の相良への思いは深かったかと推測できます。
    以後本多家が再び転封するまでの間、当地で亡くなった当家縁者や家臣の墓が宝泉寺裏山に設けられたかと。
    そういう意味では田沼家の江戸の墓を考えると、相良思いの殿と言う感覚では本多家の方が強かったのかと。
    また、その意を汲まずに宝泉寺を廃寺に追い込んでいったのが我らのご先祖様たちの動きだったとすれば残念なことですね。
    宝泉寺は元黄檗宗で代務寺院として墓地の管理者の本質は黄檗宗の某寺ということになっていますが、実際には殆ど無管理であって現状の如く他宗による法要が務められているのはそういった理由のようです。
    尚、黄檗宗は当時セレブ専門の寺で、一般の檀信徒がいなかったために大きな守護者が不在となると維持できなくなったという面もありますね。

  • #3

    小山昭治 (日曜日, 08 9月 2019 14:30)

    有難うございました。
    目から鱗です。
    これで納得して墓所を眺められます。

  • #4

    今井一光 (日曜日, 08 9月 2019 18:41)

    ありがとうございます。
    私もそういった意味で田沼さんばかりに偏ってはいられないという
    本多さんへの恩義のようなものを感じました。