石垣壇上の屋敷跡を思う 又兵衛桜つづき

昨日朝からの風雨には驚かされました。

春の嵐とでも言うのでしょうか。

幸いにして午前の法要の時間は墓参まで何とかやり過ごすことができました。

ごく近い家族のみの参列でしたが、昨日は「法事でクラスター」のニュースがありましたね。

 

本堂が暖かければ間隔を空けて席に着くことができますが、昨日はさすがにストーブを囲むような気温での着座で多少の密状態となりました。

天井が高く隙間だらけの本堂ですから空気の循環はまずまず、ただそれだけを信じての時間でした。

その後、午後2時前の横殴りの雨の際は庫裏の洗濯小屋の屋根がガタガタと鳴って「もしや・・・」の不安にかられるほどでした。

そのガタガタは夜遅くまで続きましたね。

 

 

その午後2時からは来客がありました。

先日あらたまった声で「相談したい」の電話を掛けて来られた方で庫裏の仏間を暖かくしてお待ちしていましたが第一声「家の恥を晒すようで・・・」でした。涙をぼろぼろと流していたことが印象的でした。

 

家族間「いろいろある」ことは致し方ないことであってそれについて「ただ聞く」ことは私どもにとって重大意義があること。神妙な思いで耳を傾けました。

「痛烈に困惑・・・」なることなどは一人の人間の人生には付き物であって時として精神的にも肉体的にも「いっぱい、いっぱい」を感じることはよくあること。

生きていればさして珍しくないことです。

 

寺に来られる方の悩みといえば「生老病死」というのがお決まり、生きているからこそその無常を劇的に感じることができるのですね。
また真に「如何にもどうにもならなくなる」ということは滅多にないことでもあります。

ただ「善処と思う」ことができればいいのですね。

 

一通り聞かせていただき、私は「なるようにしかならない、ケセラセラ、すべてを背負いこむことはあり得ない」等々のいつもの持論を展開させていただき、考えられる対処法を提示させていただきました。

うまいこと廻ればいいのですが。

 

さて、昨日ブログでは又兵衛桜の数点をアップしたわけですが青い空にシダレとそれを盛り立てるように脇を飾る各サクラたちの「色々」は心を和ませます。

若い頃はそのように感じることはなかったのに・・・

これを記していて今年はどこがいいか?などと思うところなのですが、さきほど思いついたのは一乗谷のシダレたちも悪くないと。特筆しての1本はありませんがトータルで見て捨てがたいものがありました。

 

奥方にそれを言うと「遠すぎる」と。

まぁ毎度家で「行きたい」を連発している国道157号線の強行突破を警戒しているよう。

「どうせ閉鎖している」と言ってもまったく信じませんね。

私の言っていることなどまず「相手にしない」ところから始まりますので何かやる時は説得に力が要ります。まさに戦国の女です。

ちなみに157号の岐阜方には根尾谷淡墨桜(エドヒガン)がありますね。そちら1本勝負なら日帰り可能。昨年、一昨年とも3/31が満開でした。越前大野城に抜けてなどと色気を出せば命取り。

 

又兵衛桜の咲き誇る場所は石垣のトップ、そこが又兵衛の屋敷だったという言い伝えですが、城郭を思わす立派な石垣にまんざらでもないという感覚になります。再訪もイイかも・・・