増田長盛の仕事 五条大橋についで三条大橋

「検査を増やしたから陽性が多く出る」の主張は「検査しなければ~少ない」の表裏であって、もはやこのレベルで「5日ぶりに200を切った」のニュースに「ホっと」などしていられません。

たまたま検査数が少なかった・・・と理解するところです(昨日は約1/6の500件程度だったと)。

 

「戦略的に検査数を増やす」などと勇ましい語句を付けてその「Go To」前倒しの正当性を貫く政府ですが、まだまだその検査数は少なく、本心のヤル気の無さを露呈させています。

 

海外の先進国の非ロックダウンの都市では希望者に「無料で何回でも」という検査のシステムが出来上がっているのにも関わらずこの国はいつまでたっても「夜の街」の語でもって全体に検査を波及しえないという現状、まったく呆れ果てるばかりです。毎日言葉遊び。

感染者を徹底的に洗い出し、陰性判定が出た人たちで社会を動かしていけばいいのですがね。

なぜにそれができないのか不思議で不思議でなりませんよ。

 

「消毒とソーシャルディスタンスを徹底していただく」とも仰いますが、とは言ってもWHOの言い出した「空気感染」があれば閉鎖空間は勿論、人との接触を極力控えなくてはならないということですからね。他人様や施設の対策の「完璧」などハナから疑ってかかります。

集団免疫を獲得したいという趣旨もあるかも知れませんが「新コロ」に免疫ができるのか、抗体が維持できるのかもわかっていません。スウェーデンはその方向性で対応していましたが「何も得るものはなかった」と振り返っていました。

あとになってお馴染みの「想定外」などという語を聞きたくありませんね。

 

そもそも「専門家の意見を聞いて・・・」と言いながら責任転嫁の意向も見えますが、今巷の専門家の皆さんに現場は「Go To~」には誰しも疑問を感じているようですよ。

 

さて、秀吉のキリシタン対策の当初の一手が伴天連追放令(1587)でした。

その内容を覗いてみればのちの秀吉の蛮行に至るその理由にはまだほど遠く「追放」という激しい文字が躍ってはいるものの時間の経過とともに暗黙の了解の如くの有耶無耶になった感が漂う甘いものでした。

その秀吉がその対策に厳密な取締りをもってあたるようになったそのきっかけはサン=フェリペ号の土佐への難破漂着でした(1596年)。

この件の現地調査担当が増田長盛でしたね。

彼については私は近江出身の当家ご先祖に同行した当地須々木在住の増田一統からしてその関連性を鑑み近江長浜は益田荘出自を推したのでしたが、この彼が秀吉がブチ切れるほどの「報告書」を記したのは案外と仏教の信仰と対立しうる新興教義を阻止すべきとの意向があったかとも考えられます。

 

その後世に言われる「二十六聖人殉教」というむごたらしき処断へと発展したわけですがそのきっかけといわれるサン=フェリペ号の水先案内人の証言(近世日本国民史  徳富蘇峰より)というものが面白いのです。

それが

「スペイン国王(フェリペⅡ世)は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」でした。

まさに先日のNHK「戦国」の先方史料をもって構成された放映内容と同様のことを言っています。

 

増田長盛は秀吉政権五奉行のナンバー3でそこまでの出世といい

 

その戦働きは秀吉のお眼鏡にかなうものがありましたが、彼の仕

 

事に関して今もこの目で確認できる場所があります。

 

彼の仕事は今でいう国土交通省のようなもので「検地」の遂行

 

と街道整備。特に京都の玄関口鴨川への橋梁整備がありまし

 

た。

 

こちら三条大橋の欄干擬宝珠に彼の名を見ることができます。

 

一旦京都に足を踏み入れるとこちらの橋周辺の事はつい見過ご

 

しがちになりますがその「証拠」はさりげなく人々の往来の脇

 

にあって渡河する者を見送っています。

 

画像はあの時息子と橋のたもとの瑞泉寺の秀次の墓にお参り

 

たときのもの。また晴れた日にでも・・・と思っていましたがあち

 

らは人も車も多くて・・・

 

五条大橋の橋脚石柱はこちら