方広寺と五条大橋を洛中洛外図から確認

オーストラリア戦は惜しかったですね。

若くて狂犬染みた走り屋の存在は嫌いなサッカーではありませんが往々にしてその若さ(クレバーさを欠く?)というものが「ちょっとちがうだろ?」ということに繋がることがあります。そこの部分が出たのが昨日の「元気の空回り」。

勇ましい言葉や行動の裏にはそういう落とし穴が控えているということも歴史上散見します。

 

自陣に戻る献身さは褒めるところではありますが、自陣ペナルティエリアで相手を倒せばどうなるかくらいのことはあまりサッカーを知らない人でもわかる事。

ああ勿体ない試合だったことか。先に点を取ると守る意識が働いてガチガチになるのもあのチームの悪いところですね。

(いらぬ詳細に触れれば、ゴール中央から右に流れるボールを追っている選手に―そのまま背後からプレスすればゴールから遠ざかりエリア外に出るかパスの選択を強いられるという状況。それをただ自分の勢いでそのまま「体に行って」倒したという無意味なファールがアレでした)

まあ反省してそれが次に生かせれればいいね。

 

それに反して卓球女子のリオ補欠だった「平野」なる16歳?の女の子が卓球W杯で優勝したとの報が。

スゲーというか天晴というか、また「そんなW杯があったの?」という自らの無知に恥じ入ったことは言うまでもないところ。

以上毎度となったサッカーぼやきでした。

 

さて、しつこいほどに方広寺周辺について記していますが、まぁ周辺にそれだけ歴史的遺物が豊富にあるというところですね。

 

昨日記した「京都国立」ですが、その「平成館」の薄暗い3つのフロアのたくさんの出遭いを監視付きのプレッシャーを受けながら拝観し終わって外に出れば、やはりほっとするところではあります。

ここで「さあ次は・・・」とばかりに門を出てしまってはいけません。外の敷地内をチェックすべきですね。

 

建屋外部敷地内にも多くの見ものがありますがそこの目玉は何と言っても五条大橋の橋脚3本と橋桁2本です。

橋脚には銘も残っていて「津国御影 天正拾七年五月吉日」(画像⓹⑥)です。説明書き参照。

 

秀吉が増田長盛を奉行にして造作させた五条大橋ですね。

それ以前は現在の松原橋が五条の木橋としてあったそうですが秀吉は摂津から石材を取り寄せての大掛かりな橋梁工事に取り掛かったのでした。

勿論その橋の工事の目的は自分の作った方広寺大仏への参詣の道路としてです。

 

ここで思い出しますが、先の五月のお寺のバスツアーでもその五条大橋を渡りました。

今年から必ず添乗するようになったガイドさんが「みなさん、こちらが・・・」とあの弁慶と牛若丸の新しげの人形の像を指差したところで「ちょっと待って」とばかりにそのマイクを奪い取りそうになりました。

そこのところ苦笑いしながら何とか堪え自重しましたが・・・。

その理由はそもそも

①そのころの五条橋はこちらではない

②彼らの出会いの場所には橋の上以外に他所異説がある

ということです。

 

この橋桁と石柱は昭和10年の鴨川洪水の際に河原に出てきたそうで、そのまま放置されたいたものを「京都国立」に設置したのだそうです。

また近くには刻銘(天正十七年津国御影七月吉日)つき「三条大橋 橋脚石柱」1本と五条大橋の橋脚石柱が2本が並んで立っています。

三条大橋と五条大橋の刻銘の時期が天正十七は同じですが7月と5月と月が違っているのは興味深いところ。

まだまだあのようなものが鴨川の土の中には埋まっているのでしょうね。

 

鉄のリング⑨⑩⑪は大仏殿の柱の鉄輪(かねわ)です。

拙寺の柱にもそのような材を補強する金物が付いていますが、これを見て「何てデカかったのだ」とため息が出ますね。

 

⑫の礎石は「京都国立」敷地南西方向から発掘されたそう。

ということは殆ど今置かれている場所になりましょうが、大きさと位置から方広寺の梵鐘鐘楼の礎石かも知れません。

なおこちらの敷地内の位置は七条通を隔てて三十三間堂がスグ向こうに見える位置。平成館とは反対側になります。

 

ネット上その他、各「洛中洛外図」の中から抽出しました(⑬~⑰)が、⑬が五条大橋と大仏殿。大仏殿は朱色であったことがわかります。

昨日のブログで「塗師屋町」について触れましたがこの色彩担当の職人が目の前に居住させられていたのが始まりかもしれませんね。

 

最後の画像2つも五条大橋と方広寺です。「正面通」には橋が架かっていませんね。

一番最後の画像が拡大図ですがこの画像は要チェック。

昨日の画像の⓹⑥の現在の豊国社と京都国立の境界に向かう石垣が描かれています。

またそのスグ脇に昨日記しましたようにあの梵鐘が・・・。

一人の侍が三人の南蛮人らしき人に例の「呪詛の銘」(徳川方の主張 ブログこちらにも)を説明しているところでしょうか。

位置的にも現在の鐘楼のある位置とは100m以上離れていますね。勿論「京都国立」の敷地になりましょう。

また大きな五輪塔のある塚山が正面通の「耳塚」になります。その奥に描かれているのが方広寺の西門で現在の豊国社の正門でしょう。位置関係等は昨日のブログでご確認を。

 

こういった絵図には以前紹介した「豊国祭礼図屏風」(現豊国社の宝物館 秀吉墳墓が裏の駐車場にありました)「タケノコ男」等「一体何者?」と思わせる人物が登場していますがこの梵鐘の南蛮人たちの右側に居る日焼けしているが如くの色グロの人物が手に持つものは・・・ボード?と思わせます。

 

後ろから3つ目の五条橋の「賑やか」の中の物乞いらしき人物の姿もリアルですね。

これらは「京都文化博物館」で見たものでした。 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 12 10月 2016 09:05)

    こうして説明を見ると、なるほどすごいものだと感じます。
    事前に説明を受けて見るものと、何も聞かずに見るものは大きく違います。
    京都はいいものだと思います。でも混雑しているから行きません。
    京都の「すごいだろう、しょうがないから見せてやる」そんな態度が気に入りません。
    奈良は、「そこにあるから勝手に見て行って、見なきゃあ見ないで、どちらでもいいよ。」
    この感覚の違いは何でしょう。、

  • #2

    今井一光 (水曜日, 12 10月 2016 09:40)

    ありがとうございます。
    奈良もいいですね。私はそちら方面でしたら室生寺を目標にしようと虎視眈々です。
    私の場合は京都への縁が深いため混雑で辟易とはなりますが、
    京都中心にならざるを得ません。

    しかし「京都国立」の場合あちらだけは「穴場」と言っていい場所です。
    途中色々、京都駅や三十三間堂など混みあう場所がありますがここはまさに異空間です。
    平日なら余裕です。
    座像の阿弥陀如来との対峙が殆ど独占できますね。勿論他の仏たちとも。
    京都駅から歩ける近さもいいので、一度は行かれることをお勧めいたします。
    欲張ったら丸一日歩いても歩き切れませんが・・・。
    観光客が押し寄せない穴場といっていい場所は各所に存在します。