現当山大澤寺門徒 増田氏の元は江州益田門徒 ?

糸魚川の大火の惨状はあまりにもショッキングでした。

当相良地区の滅多にないような大きな火事(隣家を延焼させるような)が立て続けにあってその無残な姿を目の当たりにしていましたので、一層当事者の苦しくて複雑な気持ちが伝わってくるような気がします。路頭に迷わないワケがないですからね。

 

この2度連続(近隣波津地区と須々木地区)の恐怖の再来(昔から相良には火の災禍の歴史が伝えられています)は近隣住民としてはまず救急消防のサイレンから始まって地域の防災スピーカーから報じられるその概略によって知ります。

そのスタートとなる何かしらかのサイレンの音は今「まさか」の不安に陥らされることとなります。

 

遠州の冬といえば空っ風ですが、風速10~20mという状況はそう珍しいものではありません。

よってそんな風が吹きまくっている夜の何かしらのサイレンほど気分が悪いものはありませんね。

特に昨晩は竜巻の注意報が出ていました。

朝起きて驚いたのは本堂北側の木塀の支柱の一部がへし折れて境内側に傾いていたことですが。

そちらは適当に支柱を打ってゴマ化しておきました。

大した損害でもなく人様に迷惑をかけたワケではありませんのでそれはヨシとして、あの糸魚川の大元、失火御本人の心境もこれもまた凄い落ち込みでしょうね。

 

通常は他者の財物を損傷させたり逸失させたら「不法行為」として責任をとる(民法709 損害賠償)というのが常道ですが、こと失火に関しては「失火ノ責任ニ関スル法律」というものがあって「民法第七百九条ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス」とその責任を問われないのが一般的です。

要は結果の大小にかかわらず、「失火」であれば賠償の責はないということで、「もらい火」によって延焼してしまったお宅は「自己の責任」に於いて何とかしなくてはならないという今どき強烈にシビアな法なのでした。

 

自身が失火して他者の財物を焼き払ってしまったことを想定すればその救済の法は「ありがたい」のでしょうが・・・道義的の心痛、いわゆる周囲顔向けはできませんが、本来ならば当然にあろうべき財産的弁済は免れるという特令に対して・・・何ら咎のない市民が一瞬にして平穏と財物を奪われてしまうことは何ともいたたまれないことです。

年の終わりに帰るべきHOME(昨日ブログ)がなくなるという「無常」ほど厳しい試練はないでしょう。

 

どなたであっても「火は出さない」ことを心がけなくてはなりません。勿論そのことは私自身にも言い聞かせています。

 

また当地波津で起こった火災で「水がない」という談を耳にしましたが、糸魚川の火災でもやはりそれが最大のネックになっていたと聞きます。

これはおかしな話だと思います。

最新式の消防設備と津波や地震、原発被災への防災意識の高揚が叫ばれている今、唯一あまりにも身近で恐ろしい「火災」という基本中の基本への対応ができないという事実はかなり問題とされなくてはなりません。

初期消火で「水がない」なんて・・・ウソのようなバカバカしさです。

今一度基本に戻って「防災」を練り直してほしいものですね。

 

「水」といえば古今東西、人々が命がけで奪い合ったという歴史がありますね。

火を消すために必要なことは勿論ではありますが、何よりも生活の糧であり、食とともに生命維持の必須でもあります。

そして収穫果実の成長には欠かすことはできないものであり、その利権・・・水利、占有に関して村同士の紛争に発展するケースが度々ありました。

 

よって村落の有力指導者の力量というものは特にその水利権への実行力、覇権で決まったといっても過言ではいと思います。

要は実力行使の時代ですから田畑と衣食住の基本である「水」の確保のために地域有力者の「土豪」が起こり刀や槍を携えて跋扈、中には国人として成長しながら有力武士団に組み込まれていったというのが戦国期の村落の状況でしょう。

 

水利さえ確保できれば、開墾によって田を増やすことができます。米は財力となり、勢力の差となって表れますので地域支配者は当然に「水」の確保に関しては特に念頭に入れていたことと思います。

 

さて拙寺初代今井権七(郎)とともに遠州に下向した五家のうちの野村家末の野村さんから「国会図書館の石山本願寺日記」を見ていたら「益田門徒の野村八丁弥太郎」なる人物名がヒットしたと一報がありました。

 

その「石山本願寺日記」なるものに触れるのは初めてのことでざっと私も探索を試みましたが未判明。

いずれは深入りしてみたい史料です。

私は「石山退去録」のみにしかあたっていませんのでその「益田門徒」なる語は初めて聞きました。

 

まっさきに頭に上がったのが江州益田村ですね。

そちらに野村を名のる者が居たとしても不思議な事ではありません。あの「野村」とも直線で大した距離ではありませんから。

その益田には野村と同様真宗大谷派のお寺があります(場所はこちら)。その名が「増田山真宗寺」と益田→増田とちょっとした変化があります。

 

これは当て字全盛(聞き書き)の時代ではこの手の「変化」はよく見られます。間違いではないのです。

どちらの字も「ます」という読みで、ぶっちやけ「田んぼが増えて繁栄する」という意が伝わってきます。

 

それにはやはり「水利」が肝心というところですが、この江州益田は清水の湧き出る地として有名だったようで、その水に関わる苦労はなかったようです。

水が豊富であるということは産業が興るということ、それは現在も大河川の周囲に工場群が並ぶ様子を見てもわかります。

農耕や生活飲食、防火以外にもあらゆる産業に共通して不可欠なものでしたから水利確保に頭を巡らさなくてイイということは即幸福感に繋がる豊な国を思います。

水こそ人の生活の基本です。

 

また、こちらの増田山真宗寺は豊臣家五大老として名を馳せたあの増田長盛が出たといいます。この人は他に尾張出自説もありますが、私は断然この近江益田説がもっともであると思っています。

尾張時代の藤吉郎はまだまだ下っ端時代、頭角を現すのはまだ先のお話ですね。

長浜城に入ったあたり(天正元年1573)にこれまでの浅井縁故のここぞというべき者どもを新たに集めた中の一人と思うのがスンナリいくと思います。

 

そしてまた、この「益田村の増田」こそが拙寺開祖の権七に付いて遠州に下向した五家の一つの「増田」の大元であると以前から推測していた場所なのでした。

増田長盛は「ました」と読みますが、当地の「増田」は「ますだ」です。その手の読み替えは変化は普通にありますから違和感はまったくありません。

 

その益田村に野村某がいて、増田某と一所に今井権七とともに行動したというのは「ただのこじ付け」とは言い難いところがありますね。共通点にそれぞれが真宗寺院と深く関係していたということがうかがえるからです。

信長の襲来は村落を超えた真宗門徒の団結と決起を促したことでしょう。

 

最初に記しました相良の2回目の大火事の場がその「増田」一統の住まう須々木地区。よって前回同様その時も私は気をもみました。

どちら様でも火事に遭難することに心は痛みますがそれが日ごろ面識のある方となりますとその数百倍の苦痛を共有することになりますね。

「檀家さんでなくてよかった」とは露骨に口には出せませんが本音としてはその思いは致し方ないことかも知れません。

 

増田本家には昔は家康の安堵状まであったと聞きますし、五家のうち一番に繁栄した家で、須々木には今も「増田」が多いです(当然別系統の増田もありますが・・・)。

その字の如く田を増やしていった家です。

ちなみに同系統の「増田」でも家紋が何種か違っていますのでそこのところ、ある程度の任意というものがわかります。

 

ブログではまだ記していません山本山城の遠景画像を3点ばかり。

⓼が真宗寺本堂の裏からの図。⑬安養寺交差点。「安養寺城主  佐々木浅井随兵 安養寺三郎兵衛」の名が南北諸士帳に見えますが益田の増田はそちらの配下にあったのでしょうか。みんな推測ばかりでごめんなさい。

⑭益田交差点からの風景です。⑫近江恒例益田区の住宅図ですがこちらは益田も増田も見えませんね。⑮はかつて居た沖縄を思わせるようなお店の佇まいですが、こちらは「益田」の名称を使用しています。

 

航空図は益田と他所の位置関係の様。

田んぼの中に点在する集落の様子がわかります。

近江特有の風景で私はこの様子がたまらなく好きですね。

余所者はスグに判別されてしまいかつて私も不審者として「通報された?」と思うこともままありましたが、一旦心を開けば造作なく会話をしてもらえるという温かさで溢れています。

まず区長へ」というところも好きですね。

 

ちなみにこの益田では何事もありませんでした。というか人と殆どすれ違いませんでした。のんびりとした近江の風景の中に浸れること間違いなし。

 

大きい方の航空地図で大雑把な位置関係がわかるかと。

黄色い丸が益田の村落で小谷城ほか虎御前、浅井重鎮の居城の岡山(丁野城)に山本山城と連なったその南、琵琶湖にほど近い場所に位置しています。

野村は益田から東、姉川にぶつかるあたりになります。

 

最後にさらっと・・・昨日はまた驚かされました。

東京の叔母さんから「新聞に出ているよ」との連絡。

朝日新聞(夕刊)の全国版でした。取材に応じましたが記事になるかは「わからない」という言葉でしたので・・・

 

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コメント: 5
  • #1

    野村幸一 (日曜日, 25 12月 2016 07:45)

    ありがとうございます。

    真宗寺の家紋、竹と笹と雀?ですかね。当家野村の家紋が九枚笹で笹紋なので何か共通点がありますね。

    増田氏と野村の接点、僕もこちらのような気がしてきました。次回、図書館へ行った際は各家の名が索引にあるか確認してさらにその箇所を調査してきます。

    索引には野村の旧跡復興だったか再興の項目もありましたが、これは山科本願寺の野村殿のことでしょうか。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 25 12月 2016 08:33)

    ありがとうございます。
    石山本願寺日記を入手していませんのでハッキリわかりません。
    なにより「益田門徒」の意味を今一度江州に確定したいですね。
     

  • #3

    野村幸一 (日曜日, 25 12月 2016 10:27)

    確かにおっしゃる通りでした…。索引本で見つけただけですからね。益田という地名は他にもあるようですし。本願寺日記の本編にどのような内容かによりますね。

    楽しみか増えました

  • #4

    野村幸一 (火曜日, 27 12月 2016 12:04)

    真宗寺の家紋?寺紋?を検索してみましたが、どうも見当たらないですね。オリジナルの可能性が高いです。

    石山本願寺日記の出版社の清文堂、興味深い書籍がありそうです。

  • #5

    今井一光 (火曜日, 27 12月 2016 16:36)

    ありがとうございます。
    家紋そもそもが各代オリジナルデザインOKの代物で、先代と同じものを
    受け継がなければにらないといった制約はないものと考えます。

    全く違うものをもってきたり、少し意匠を変えたり・・・
    よって家紋を集めた書籍の中にあてはまるものがないとしても
    不思議はないかと思います。
    なぜなら変化が無限ですのですべてを収集しきれないからです。

    何より他家と同じものであれば自身の家をアピールしにくいといった発想も
    あったと思います。
    数百年の経過を考えれば変化があって当然と考えるべきで、家紋は
    あくまでも参考までということですね。

    私はお寺の住職にお会いしていませんので詳細は不明ですが、
    その手の件は実際にお会いして聞くのが一番だと思います。