「気の利いた化け物は・・・」西明寺の血の紅葉

昨日は大阪からの来訪がありました。

内容は関西系放送局(毎日放送)の放映(27日1800)ということで非常に気がラク。近くの人たちに見られていないというコッソリ感、リラックスして応じることができました。

 

大阪毎日放送と聞けば「よしもと新喜劇」ですね。

「邪魔するでぇ」(いらっしゃった方は丁寧です・・・)には「邪魔するなら帰って」とのお決まり問答がありました。

まぁその状況は借金取りの訪問限定でしたね。

 

また手土産を「つまらないものですが・・・」と差し出されましたが、そんな時は「つまらないものなら・・・」とその袋を杖でぶっ叩くという対応パターンがありましたね。

私はどうしていいのか一瞬戸惑ってしまうほど固着してしまいました。茂造(辻本茂雄)のリアクションが頭から離れませんので・・・。

 

その劇中でのお約束問答を度々見ている私は何か品物を先方で差し出すときはその語彙(つまらないもの)は避けて、意識的に違う言葉を使うようにしていましたので逆に新鮮に感じ「大阪ではこういう場合いつもそう言うの?」などと無意味な質問を返してお客を困らせてしまいました。

それよりもこの中部東海までやってきてそのギャグを返されて「よくご存じですね」などと煽てられてニヤニヤしていたところでした。

 

拙寺本堂の阿弥陀如来にはやはり感動してくれましたので私のお決まりコテコテ説法「OK!!Ok!!」に「おはこ 十八番」(ワープロ入力で「おはこ」で「十八番」)如来のはたらきは「おまかせ」「ありのまま」の件を少々。

ここで劇団の「アキ」の持ちネタ「いいよぉ~」の精神をくっつけるところは忘れてしまいました。もっと説得力があったのですが・・・。阿弥陀の心はやはり関西系のお笑いに通じるものがあるのかも・・・などと思ったところでした。

 

現在私が取材されているテーマは「世の不寛容の蔓延」が切り口ですね。

その一端としてある「署名の無い、身元の不明のクレームから強固なまでに相手の意を曲げさせようとする個の主張とその対応」について・・・です。

 

なるほど、各各事情もあり、今は不寛容不許容の流れに世の人の心は動いているように感じます。

諸処事情によって立場は違うことでしょうし色々な意見があってもいいものですが社会全体がそういった閉塞した環境にいたってしまうことだけは避けたいところです。

 

そんな折、最近Apple社のCMについて「奥の墓道氏」と話題になりました。

彼は「ベタではあるが・・・」とそのCMの主張に関して私が彼に問いかけたこととともに理解してくれていました。

フルバージョンを見たい!などと思って検索すればYouTubeに 

「Apple – Frankie’s Christmas」でupされていました。

 

最後にテロップが「心を開こう 誰にでも」と流れて終了です。ガチでベタだけど感動的。

Appleの主張はまさに今の世の中が「そうではない」ことに対する警鐘なのかもしれません。

 

独り孤独でいても集団の中にいたとしても人はその疎外感に自己を埋没させることなく一歩前に出る事を惜しんではいけない、相手の言いたい事やその意図に「耳を傾け 行動しよう」ということと受け留めさせていただきました。

「心を開こう 誰にでも」の精神は①いつも②聞く③許容 というスタンスに尽きるのだということですね。

 

ちなみにあの曲は

「There's No Place Like Home for the Holidays」という50年代のクリスマスソング。

「Home 」を家と訳しても「故郷」(くに 実家)と訳しても・・・。まさに歌詞はその通りに思います。

人生を旅とたとえてもイイですし、その旅の疲れを癒すのは「MY HOME」であり故郷の皆の衆との再会です。

 

ぶっちゃけ日本風に記せば「年末年始の休みは家(実家)がイイ」でしょうか・・・

 

 

さて、落語に「三年目」という演目があります。

内容詳細は各自お調べいただければと思いますが一言で記せば亡くなった愛する妻がスグにでも化けて出てくる約束をしたにも関わらずようやく三年たってから出てきて恨みつらみを言うというお話です。

そこで夫が言い放ったのが標記「気の利いた化け物は」という開き直りですね。

 

さんざん待ったが出てこないので「しょうがないので再婚しちゃった」というワケですが、そのオチが江戸期の葬儀風俗を知る上で絶妙に面白いのです。

 

通夜の「おかみそり」の儀式について以前にも記したことがありました。

そのグッズについてですが祖父の時は「安全カミソリ」。

父がそれ用の模造刀でした。

 

私に至ってはちょっぴり凝っていて刀剣砥師兼神主の中村先生がそのために作ってくれた「無量寿」刻印の真剣を使用しています。それ以前の歴代は何を使用していたかは知る由がありませんが・・・。

どちらにせよその刀は実際に髪を切るわけではなく、断髪の真似事を儀礼的に行うものです。

その行為とともに「流転三界中・・・・」の経文を拝読して法名命名式は終了です。

 

ものの数分で終了いたしますので故人がたとえ事前に本山などで帰敬式を済まされていたとしても私はその旨紹介してその式を行うようにしています。

 

そのお話しの中で断髪(おかみそり)の儀は宗旨場合によっては本当に剃髪までさせていたということを示唆しているのです。

私にとっては目から鱗のお話でしたが、一般的には剃髪していない坊さんがちょろちょろしている方が驚きと捉えられるかもしれませんね。

話が旨すぎるといって呆れられる方もいらっしゃいましょうが、これも「ありのまま」ちょっと宗旨的に言えば「自然法爾」の考え方になりましょう。

 

さてさて本題です。

湖東三山は百済寺・金剛輪寺と回って残すところ西明寺となりました。

まごまごしていたらあっという間に紅葉シーズンは過ぎ去ってまるで「気の利いた化け物」同然ですね。もっともこのブログはバックの季節感などはハナからそう気にしていませんし無茶苦茶ですからどうってことはありませんが。

 

このお寺も前に記した二つのお寺と同様に天台宗でかつ密教系寺院そして城塞の如くの威容立地そして信長の兵火まで同じです。起源も非常にありがちな「紫色の」「光、煙」の発生源に「高僧が立ち寄ったところ・・・」からですね。

昨日記した「木之元地蔵院」もその手の伝承でした。

これもその形容でどこかでも記したと思いますが、「Deep Purple」の、特に「Smoke On The Water」なる曲の語呂が頭の中で合体してイメージしてしまいます。

勿論「On The Water」とは淡海(琵琶湖)です。

 

信長に全山焼き払われなかったという理由は信長軍が迫ってきたことを事前に察知しての前面に見える塔頭に自ら火をかけて

ゴマ化したという伝承がのこっているようです。

信長軍は目前の火の海の様子を見て「退却した」といいます。

 

私がこちらにお邪魔したのは日没寸前でその時分の様子ではありますが、夕陽が紅葉にあたってより一層「血色」の良さを出現させていました。