琵琶湖対岸坂本まで馬で超えた?明智秀満 大津城

オランダとスペインの覇権争い(昨晩のNHK「戦国」)楽しく視聴しました。「戦国時代の日本は世界史の最前線だった・・・」。

先週の「スペイン宣教師の暗躍と為政者(信長・秀吉)との駆け引き」に続く2回目でした。

スペインを追い落とさんとばかりに新興勢力として名のりをあげたオランダの史料を紐解かれた逆日本史。ある意味世界史の先端にあった・・・というのは少しばかり嬉しさをも覚えました。

 

「関ケ原」の半年前にウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンの日本への漂着からオランダと家康の付き合いが始まります。

まずその最新式鉄砲の提供が名刺代わりとなり、大坂の秀頼を掲げる石田三成方と対峙、その後のオランダと大坂城を支援するスペインの代理戦争の面もあったということですね。

 

時系列として禁教令が1612年ですから大坂の陣の1614年の直前。これは家康がスペインと手を切ったという表明でもありましょうが、その結果スペインは秀頼一本に傾注したということがわかります。

要は大坂方が勝利して家康を排除していたら日本はカトリックの国になっていたかも知れないということですね。スペイン方史料からその意図は見え見えでした。

 

スペインとオランダの主たる目標(スペインはキリスト教布教による世界制覇―オランダはただスペインに勝利するための財力・・・貿易)はつまるところ双方「カネ」ではありますがその方向性が違っていたワケで今、私が思うところでは明らかにオランダの方が健全でしたね。現在の相互の利(貿易)と言う点で。

そのウラにはスペインを駆逐したいという意図があったのでしょうが「商売」が基本ということは明快でした

ここでも家康が勝利したことに安堵させられたわけで・・・

 

そしてその彼らの目標となる日本の財物といえば銀。

当時日本の銀は純度もスペインの持つ銀山産出のものより高くまた家康が差配する銀鉱山の産出量は世界の1/3の量に達していたと言います。

それを戦わずに時間をかけながら日本人の心を制御して(宣教師と教会による)すべてを手に入れようという意図がスペインにあったのです。家康はオランダの注進もあってスペインの計略を察知し排除したのでした(禁教令)。

そういえば大坂方にはキリシタン系が多かったような。

改宗したキリシタンも宣教師たちの扇動によって大坂城に籠ったのでしょう。

 

それにしてもオランダ商船の積み荷リストに日本人名が多数あったという史料は初見でした。

大坂の戦による豊臣家滅亡により戦国時代は終了。

行き場の無くなった日本人サムライ傭兵(戦闘の技術者)が集められスペイン領モルッカ諸島に向かったといいます。莫大な利益を産む香辛料の集積地でした。

この戦いでオランダの勝利となってその地の奪取に成功するわけですが

「日本人傭兵はオランダ人より勇敢 スペインを駆逐するには日本人傭兵の力が必要だ」などというオランダ方の記録にはまさに驚きでした。

 

積み荷リストには刀、槍のほか鉄砲もありましたが、これはおそらく逆輸出でしょうね。何より日本国内の鉄砲生産能力と技術力が既に世界から承認を得ていたということでしょう。

アムステルダムにあった最新式大砲に使用されている良質な銅材と言われる分析結果が「日本産で間違いない」のお墨付きからして、日本人の技術力対応力ほか特筆的潜在能力というものを感じましたね。

当時の世界を手中にしていたスペインとそれに代わろうとするオランダが日本との関わりを強く持ちたいと鍔迫り合いをしたということがわかりました。これが世界史の「先端」に躍り出た由縁です。

 

無敵艦隊と呼ばれたスペインほか列強が簡単に武力によって日本を制圧(植民地化)できなかった理由はそこにあったのかも知れませんね。

ただの偶然で生き残れたというのではなかったようです。

コロナ禍は今後どうなるかなど知る由もありませんが、第一波の襲来を他国と比してそこそこ立ち回っているのはやはりただの偶然ではないのかも知れません。

 

さて、激しい新規感染者の上昇ムードに「東京は東京、どうぞご勝手に・・・」という諦めムード漂う昨今、私にはたくさんの行きたい場所がありますが、このほど石山寺がその候補に名乗りをあげています(ノー天気なブログで失礼します。大きな災害に遭った熊本の皆さんにお見舞い申しあげます。また南無阿弥陀仏。)

 

これは本能寺直後の明智秀満(左馬助)が船で瀬田川を渡ろうとして瀬田城主の山岡景隆と戦になったと記された山岡家による文書が石山寺で発見されたというニュースを見たからです

コロナ禍のせいで暇になったお寺の担当が倉庫から掘り出して発見したとのこと。新資料の発見はわくわくしますね。

 

左馬助は今年の大河ドラマにも登場するほどの光秀の近くにいた人物でいわゆる重臣中の重臣。本能寺では明智軍先鋒として信長を討ち取ったといわれる武将ですね。

しかしやはり彼の出自も詳細不明で昨日記した長山明智城の七ツ塚に名前のあった「三宅氏」との縁故も挙げられている人でした。

 

彼は本能寺の「ひと仕事」のあと即座に安土に入ったというのが定説ですがその石山寺の記録からすると秀満の瀬田橋渡河作戦は「おそらく失敗」を想像させるもの。

ただしこれは「勇猛果敢の大成功の山岡家」自画自賛のような書き物ですのでその辺りはちょっと・・・とは思います。

 

実はまた別の書き物(信ぴょう性はもっと無さそうな)に「秀満の湖水渡り」というスペクタクル演出というかあり得なそうな伝承がありました。

彼が光秀敗死の報を聞いて安土から坂本に戻るというシチュエーションでしょうが堀秀政に進路を阻まれてやむなく馬で湖を渡ったというお話です。

 

となると秀満が馬と一緒に湖に入ったと言われる言い伝えがある(いつからその場所が断定されているのか知りません)膳所城と大津城の間あたりの浜というのは(そもそもあり得ない話とは思いますが)場所的に矛盾があるような・・・

 

画像は相当前に行った大津城(場所はこちら)。

何しろ膳所城も大津城も長居は無用の場所。

大津城は殆ど駅前の城で、遺構もへったくりもありません。

ラッシュ時など車は渋滞しますし。さすが県庁所在地。

 

文書は10月31日から公開予定といいますからどちらかの平日の晴れた日の午前中にでも見に行けたらと考えます。

近江日帰りなら楽勝です。

しかし京都にも足を伸ばそうか・・・という微妙な位置で欲張りたくもなりましょう。奥方を連れて歩くには三井寺散策くらいが丁度いいかも知れません。

 

では何を喰わせて黙らすか・・・ということになりますね。

瀬田付近では以前うなぎ屋に入りましたが、最近はどうもそれは気が進まなくなりました。夏なら一回くらいはいいかもね。

 

最後の画像が大津S.A.から見た坂本方向。右手方向が瀬田になります。

その「湖を馬で」の件、作り話かどうか、本当のことは三上山が知っている・・・ということでしょう。