鐘(カネ)に恨みは数々ござる 時鐘六時礼讃 三井寺

先日境内でお会いした方から第一声「ひでえ目にあった・・・」と。その数日前のこと、拙寺に参ったものの庫裏不在で用足しに出たのが運の尽き、本通り「市場」のバス停に停車したバスの後ろで停車(2台目)して発車待ちしていたところ後方から追突されたとのこと。勢い前にいた車両に玉突き衝突となったそうですが「首だ背中だ痛くて痛くてしょうがない」とここ通院のハメとなったことを話していました。

最初に衝突した方は「うっかりしてしまって」との理由だったとのこと。

 

その語「うっかり」は、まぁ人間の、まさに私のことのようで私などは「ぼんやりしちゃあ いられない」という掛け声だけは一応は大層にあげていますが、ここのところかなり怪しい気配。

人様に怪我をさせるということは基本「傷害」、相手が亡くなれば「傷害致死」要は民事(カネで解決を図る)は当たり前でそうともなれば刑法犯のお仲間です。

 

別の檀家さんの某氏はご家族から免許証の更新停止を切に願われていましたが、直近の事故3件はすべて物損事故であって相手様の人身を傷つけているワケではありませんでした。

そのため免許証更新の際、ご家族が、こうこうこういった理由で免許証の更新を拒絶して欲しいと警察署(公安委員会)に行って相談したそうですが、「それはムリ」と門前払いされたとのこと。

ホントは大きな事故が発生する前に対応していただきたいという願いなのですがそれが通じないのは歯がゆい事でした。

 

昨日報じられたニュースによると携帯電話関係の罰則強化に加えて高齢者運転に関しての本人や家族の相談窓口を開設するとの改正法案を国会に提出するといいます。

責任回避の建て前ではなく良き方向に動いて欲しいと思います。

 

とりあえずの私に直接かかる件はスマホの方。

その操作によって安全を蔑ろにし交通事故を起こしたとしたらそれは酷いペナルティに嵩上げされますが、直接交通の危険を生じない場合でも現状の「5万円以下の罰金」→「6月以下の懲役または10万円以下の罰金」という厳罰化振りです。

 

私が思うのは①厳罰化の旗をここで掲げたということと警察方の取り締まり②ノルマのupに繋がる(検挙効率の良さ)ことから今後街頭交差点に立つおまわりさんの監視の目はいよいよキツくなるということ。

私どもの「安全のため」とはいうものの、結局のところ「罰金」を「予算」として期待する部分が垣間見られる現行制度ですから。

私たち庶民からすれば「カモにはなりたくない」と思ところ。結果、ペナルティ怖さの自己コントロールが発して事故というものを回避できればそれに越したことはありませんが。

 

もはや運転中にスマホはいじれません。

ぶっちゃけ、これまで「少しくらいなら」という気持ちで電話をいじくっていました。

ペナルティ(罰金)が強化されてそれを決断するなど言語道断たる身。ああ恥ずかしい。

 

さて、ブログでは「鐘」についての色々を記していますが、その梵鐘の意義については当流には当流ならではのスタンスがあって、まぁそれは教如さんの「寺再興の決意 寺としての象徴」風のことを記しました。

そしてまた鐘そのものの役割については「時鐘御用」でした。そしてその歴史は?ということについてもよく聞かれるところですがそれを紐解くには古い梵鐘が各所に残っていることもあって少なくともその存在自体はかなり古いことはわかります。

妙心寺と大宰府観世音寺の梵鐘で兄弟鐘といわれているものが西暦600年代後半。後者は菅原道真がその音を聞いて詩にうたうほど。

 

つまるところ仏教伝来以来仏教寺院にはその後に「つきもの」の如く備わるという起源は意外に古かったことがわかります。

そしてその役目とは・・・やはり「実務」としては「時鐘」としてのお役ではありますが、時間の経過とともに日本人の感性に染みわたって時々の「人それぞれの思い」を印象付け、それが今の私たちに伝わってあるのでしょうね。

 

今の「除夜の鐘」108回の意義が「煩悩の払拭」にあるとは言い切ることはできませんが、基本やはり「煩悩」を抱えた身にとっては鐘の音に思うところが多々あるということは確かでしょう。

表記「鐘に恨みは数々ござる」は「娘道成寺」の一節ですが「怨恨」などは煩悩そのものですからね。

またそのあとから「伏見の墨染 煩悩菩提の撞木町」などと洒落た歌詞が出てきます。

そしてそれから「鐘に恨み」の「鐘」が「金に恨み」と掛けられて人々に伝わったのでした。

今となっては「金の恨み」の方がピンときますが・・・。

ここでなぜにして「鐘に恨み」かと思われる方は「安珍・清姫」のお話を思い起こすかそれをググっていただくか。

 

要はこちら(道成寺の娘)の方の「煩悩」はといえば「女と生まれた者のさまざまな心の動き」のこと。障りがある・・・と言われた「女子」(おなご)の。

昔からそれを一言で初期仏教伝承を根拠とした「女人五障」(時に「五障三従」とも)といって蓮如さんの御文の中にもたびたびその「五障」という文字は出てきます。

拙ブログでも幾度か触れたことがあったような・・・(思い出す限り)。

 

以下「京鹿子娘道成寺」の表記「鐘に恨みは数々ござる」以下の部分を記します。

その情景の殆どの部分は能の「三井寺」(作者不詳ながら世阿弥説あり)から引用したものですね。

まぁ鐘つながりということと特に「三井寺」などは仏教的「因縁」を基としたストーリーで、道成寺の「娘」の情念の心の振幅を伝える部分を引き立てるにはよくマッチしているところと思います。

 

「 鐘に恨みは数々ござる

 

初夜の鐘を 撞く時は 諸行無常と ひゞくなり

後夜の鐘を 撞く時は 是生滅法と ひゞくなり

晨朝のひゞきは 生滅滅已

       入相は 寂滅為楽と ひゞくなり

 

聞いて驚く人もなし

             我も五障の雲晴れて

               真如の月を眺めあかさん 」

 

上記「初夜」「後夜」「晨朝」は善導の「六時礼讃」でお馴染み。私も気が向けばそれら「無常偈」を時間に関係なく勝手に読誦させていただいております。

そして、ここで撞かれる鐘が「時鐘」であることがわかります。

また「入相」とは「日没」の事ですがこの詩で「日没」にせず「入相」としたのは字面と音からくる演出でしょうね。

「入相の鐘」の方がいかにも文学的のようでもあります。

 

そしてその音を聞くことによって「五障の雲晴れて真如の月を~」の如くその効果が発揮できたことが謡われています。

「真如」とは仏教語ですが以前流行った「ありのままで~」(Let It Go)の事でした。

ちなみに「如」の文字は本願寺歴代門主が使用していますので、私どもが法名にそれを採用するのはちょいとタブーな字となります。

 

まぁ私はそんなところの能書きはヨシにして、鐘を撞く意義を「スカッとすればそれでよし」などと、かなりよい加減な事を吹聴していますが。

 

画像は三井寺。三井寺には3つの梵鐘があります。

①の鐘楼はブログ再掲載ですが中の「弁慶の鐘」は取り外されていますので現在は観光用のものでひと撞き300円。

④の鐘楼は何とも恰好がいいですね。江戸後期の作です。

かつては「童子因縁之鐘」なる鐘が掛かっていたようですが、例の金属類供出令によって失われ再鋳造されたものが掛かっているようです⑤。

 

鐘に因縁話(ストーリー)を持ってきて、人情とそれを取り巻く不思議な縁を描こうというのは日本の仏教文化の一つなのかも知れません。

「鐘」にハマって演劇の道成寺ものと三井寺に興味がわいたところです。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (月曜日, 15 1月 2018 13:24)

    常々思います。
    ・年より向けの安全に乗れる自動車はできないものか。
    セニアカーでは2時間は乗れません。雨が降っても困ります。
    スピードは40㎞くらいでいいのです。安全装置を全部つけて
    やたら止まるようにすればいいのです。
    ・NHKのチャンネルのないテレビは発売されないか。
    それなら受信料を払う必要はありません。できるはずだけどね。
    電気屋と国がグルになっているのか。

  • #2

    今井 一光 (月曜日, 15 1月 2018 21:14)

    ありがとうございます。
    時のたつこと、そういう意味では恐怖に感じますね。
    私どもの「その時」の不安に応えるよう社会全体で努力してほしいものです。
    当然に私もそのインチキともいえそうな数々の疑問を思います。
    ただしコマーシャルタイムのないNHKの財力豊富でのみできうる番組たちは
    ありがたく視聴させていただいています。