神明神社 恩田家墓域 明智孫十郎直経

昨日の東京は13人。うち7人が20代、8人が「夜のお仕事(接客業)」とのこと。神奈川は1人でした。

まぁ東京は案の定というかやはり再び二けたへ。

 

昨日は霧雨があがって日没後ほんの少しの薄ら明かりの中「新野水のめぐみ公園」へ向かいました。お目当てはホタル。

以前のブログで言えば想慈院前の小川、相良近隣では絶妙な遺構を遺す密かにお勧めしたい「八幡平の城」の台地がつくる谷あいに位置しています。

 

奥方と「ちょっと時期的にどうかな・・・」と言いながら鬼女原に上がって新野原の交差点を新野方面に下りました。

するとやはり期待通り、「乱舞」とはいかないまでも蛍たちの競演に立ち会うことができました。

スマホカメラでの撮影ですのでダメダメ。

気分だけでもとアップしてみましたが、現場では分かりませんでしたがこの不思議な「神明」はエメラルドグリーンに発光しているように見えます。

 

どちらにしろ首都圏ではそうはお目にかかれる光景ではないはず。付近にこのような名所があっても私どもの滞留した30分の間、どなたもこの妙なる景色を見物に来られた人は居ませんでした。新コロの主たる感染は「夜遊び」といいますがこちらはまったくお構いなしでした。

ごちゃごちゃと人が大挙したとすれば彼らは消えてしまうでしょう。自然との距離も特に大切なことです。 

さて、「光秀は実は生きていた」を主張する山県市の桔梗塚(またはこちら)ついて記しました。光秀が「荒深」という姓に変えて当地に暮らしたという伝承です。

その手の「実は生きていた」伝承は歴史登場人物で非業の死を遂げた者など枚挙にいとまがありません。

 

よってまた、その手の御説は殆ど眉唾であると一蹴しがちにはありますが案外まんざらデタラメとは言えないようなものもありますね。

特にその件、大いに「なるほど」と説得力がありました。

 

歴史の通説として私たちが聞きかじっている「正当」であると教科書に掲載されているような事象についても、よくいう「歴史は勝者に改竄される」という件を考慮に入れればやはりすべてを鵜呑みにしてはイケません。歴史は疑ってかかるというスタンスは必要ですね。

もちろん各「改竄」の疑いは最近の政治世界ではまたぞろあってもはや「正義」など無いに等しいような気もして来ましたが・・・。

 

しかし教科書通りのことを試験の解答用紙に記さねば☓点をもらうことになります。

 

そしてこの光秀がこちらの故郷に落ち延びた理由として、今一つの関連性のある苗字があります。

それが「恩田」です。

先日ブログではその桔梗塚へ辿るその道の概略を記しました。

「256号線を武儀川の橋を渡って」のところ「トンネル」を抜けた場所にその桔梗塚はありますが、その橋を渡って(トンネルを潜らず)スグ左折してしばらく行った辺り、向かって左側が武儀川(そこからは見えません)、山側に「神明神社」というエリアのその川側に墓地があります(場所はこちら)。

 

おそらく神社境内や墓域の間にこの新しい道路が作られたような形跡を見て取れるワケですが、ざっと見ると「恩田氏」累代が主体となる墓地であることがわかります。

 

恩田氏とは・・・表記明智孫十郎の出自といいます。

その人は恩田直實を父とし直経を名乗ります。

ここからが複雑で光秀は現在の大河ドラマではまずその説は示唆すらないでしょうが(妻煕子との夫婦愛を描くというのが大抵のストーリーですから・・・ああ、それから煕子の名もどちらかで記しましたが最近の物語上の名でした)、光秀には側室があって(本当にいたのかいなかったのか幾人いたのかそこは割愛)その側室の一人の妹が孫十郎の妻であって明智光秀の義弟だったと。よって恩田→明智と改めたというのがその経緯。

彼は天正十年六月二日に本能寺へ向かった本体と別れ対二条城、織田信忠討伐に出てそこで討ち死にしています。

 

出自の件がハッキリと記された孫十郎の墓と呼ばれる墓碑がその神明神社前の道路を隔てた墓域にあります。

父母そして当人と妻の戒名が記されています。

「ハッキリわかりやすい」点、つい眉に唾したくなるところですが碑文によれば、恩田家一族は美濃国守護土岐家旗下。

佐藤石見守公輝の子、恩田右馬允輝直を祖とあり、また付近には「恩田」と彫られた墓碑が散見することができます。

 

光秀が何とか落ち延びることができたとして、帰還すべきは生まれ故郷、義弟の実家近くであったというところも頷くことができます。

義弟とはいえ、ごく近い場所に光秀の墓が存在しているのですから。

まぁ明智光秀については何から何まで謎で、色々な方々の推測が交錯しているのでした。

 

闇の中で点のようにまた神がかったように見える蛍光を結びつけるようなものです。

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コメント: 4
  • #1

    がつお (火曜日, 02 6月 2020 12:12)

    目の前の道路新設と大河ドラマのために周辺に散在していたものを集めました感が否めないように見えますね。
    文字に関しては石の材質と置かれている環境の影響が大きいのでしょうか。
    私は石に詳しくないのでわかりませんが、ご先祖様のお墓も元禄の頃と弘化の頃のものでは元禄の方が文字ははっきりと読み取れます。
    元禄の人は道場を開いてそれなりの門下生がいたとされているので裕福だから材質の良い墓石が作れたのでは無いかと勝手に想像しています。
    ただ、下級幕臣でありながらそのようなことが許されていたのかは甚だ疑問ではありますが。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 02 6月 2020 12:52)

    ありがとうございます。
    石標素材はさまざまですが、やはり当初は宝篋印塔か五輪塔が建っていてそれらが経年によって散逸しそれではイケないとこういった自然石を利用した石碑を建てたのかと思います。
    石材に関してはまずは花崗岩質のものが重宝に使われますがこの石材に関しては比較的風化の具合が早く、品物によってもその風化の進行に開きがあります。
    また同じ産地であってもその崩壊にスピードが違ったりします。
    墓地でも江戸中期以降の建碑であっても砂のように崩れてしまうような墓石を見受けます。河原に近い場所にあれば硬質の自然石が入手しやすいものがありますが石大工の
    加工は手間がかかりますね。
    やはりコストはかかるはずです。
    そもそも墓石にお金をかけられる家は江戸期であってもそうはなかったかと。
    ただし武士階級ですとその墓に関しては葬儀とともに周囲に見栄を張るところだと思います。

  • #3

    お祭り大好き (火曜日, 02 6月 2020 19:25)

    想慈院までは何回か出掛けていますが、「新野水のめぐみ公園」は知りませんでした。
    「いーら」周辺のキジ・カモシカと同じように蛍も観賞したいですが、距離・時間的に制約があり残念ながら見送ります。
    5年前のブログも再読し、「ご住職が舟ケ谷城尾根筋の裏山から突然現れた」の隠れた情報を思い出しました。
    明智光秀が脚光を浴びていますが、新野左馬助は大河ドラマから離れて元の静かな環境に戻り、左馬武神社周辺を「萩の里」とすべく地元有志が新名物作りに努めています。

  • #4

    今井一光 (火曜日, 02 6月 2020 20:26)

    ありがとうございます。日が落ちてからあの寂しい場所にお一人相良の帰りに
    ブラブラと闇に紛れて歩くのは辛いてしょうね。
    ご自宅に到着するころは9時を回るかもしれませんね。
    小川のせせらぎと蛙の声、ドクダミの花か、甘い香り漂う湿潤な暗闇の空気を吸い込めば
    コロナウィルスなど消滅させてくれそうな気分にさせてくれます。
    既に新野左馬之助を地元で語る人はいなくなりましたね。